世界史にあまり興味がない人でも、古代ローマ帝国を知らない人はいないだろう。
さて、ローマ帝国というと、世界史の授業などでは、
で終わってしまったかのような教え方をされることが多い。
その後、800年に、フランク王カールがローマ教皇から「西ローマ皇帝」として戴冠され、「西ローマ帝国が復活した」、とされる。
カール大帝は「西ローマ皇帝」である。
と、言うことは「東ローマ皇帝」がいるはずだ。
そう、東西分裂後もコンスタンティノープル(ギリシャ・ラテン語名コンスタンティノポリス、現在のトルコ・イスタンブール)を首都とする東ローマ帝国は生き残っていた。西ローマ滅亡後は「唯一のローマ帝国」として……(*注)。
「ローマ皇帝は、コンスタンティノープルにいる皇帝ただ1人である。」
と言って、「東ローマ帝国」はカールのローマ皇帝位を認めなかった。
確かにそう主張するのは不思議ではない。東の帝国こそが、古代から滅びることなく続いてきた正統なローマ帝国なのだ。
10世紀のオットー1世にはじまって、あのオーストリア・ハプスブルク家のフランツ2世まで900年以上継承された「神聖ローマ皇帝」とて、ゲルマン人どもの僭称に過ぎないのである。
ところが、その頃のコンスタンティノープルを首都とする「ローマ帝国」の領土は今で言うギリシャとトルコ、イタリアの南端のみ。アウグストゥスの正統な後継者である「ローマ皇帝」も、「ローマ人」と称する住民の大半もギリシャ語を話し、国教はキリスト教……。
この、古代ローマ帝国とはまったく姿を変えていた帝国は、首都コンスタンティノープルの旧称ビザンティオンにちなんで後世、ビザンティン(ビザンツ)帝国と呼ばれるようになった。
しかし、正式な国名はあくまでも「ローマ帝国」、皇帝は「ローマ皇帝」。あのローマ帝国は、1453年にオスマン・トルコ帝国に滅ぼされるまで、文明の十字路に盛衰を繰り返しながら存続したのである。
帝国の住民たちの大半がギリシャ系であったにもかかわらず、彼らは「この国は唯一の正統なローマ帝国であり、自分達はローマ人である」と、1000年にわたって主張し続けた。ビザンティン帝国は、20世紀の共産主義国よりも建前にこだわった国であったのだ。
西欧の言語で「ビザンティン」「ビザンツ」というとき、それは決して良い意味ではない。「神の代理人」である皇帝による専制政治、能率の悪い官僚制、帝位をめぐる陰謀、そして些末な神学論争ばかりに明け暮れる人々……そのような印象があるからだ。
しかしながらビザンティン帝国は、古代ギリシャ・ローマ文化と東方の文化・キリスト教とが融合した独自の、しかも西ヨーロッパ諸国よりも高度な文化を持っていた。西欧のルネサンスは、ビザンティンやイスラムから古代ギリシャ・ローマの文化が伝わって起こったものなのだ。
そして、帝国の首都コンスタンティノープルを中心とするキリスト教会は、こんにち東方正教会と呼ばれる宗派となり、帝国が滅びて500年以上経った今でも東ヨーロッパ諸国やロシア、遠く日本にまで広まっている。現在紛争が続いているバルカン半島は、この東方正教会抜きには説明できない。そういった意味でビザンティン帝国の世界史における重要性は、現代においてこそ注目されるべきなのである。
*注−ここでは分かりやすくするために「東ローマ皇帝」という呼び方を使ったが、コンスタンティノープルにいた「ローマ皇帝」を「東ローマ皇帝」と呼ぶのは、厳密に言うと正しくない。それは何故かというと、476年に西ローマ帝国の傭兵隊長オドアケルが最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位した際、当時の東ローマ皇帝ゼノン(在位:474-475,476-491)に西ローマ皇帝の位を返上し、名目的にはゼノンが東西をあわせた全ローマ帝国の単独皇帝となったからである(もちろん現実には、西ローマ領はゲルマン人に占領されていた)。コンスタンティノープルの皇帝が「唯一のローマ皇帝」を主張した根拠はここにあったのだ。
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