概説・東方正教会
(予告編)

キリスト教の宗派というと、日本通常思い浮かべられるのがカトリックとプロテスタント。しかし、もう1つ東方正教会(the Orthodox Church)という重要な宗派が存在する。その信徒は全世界で約3億人、日本にも東京・御茶ノ水のニコライ堂を本拠とする日本ハリストス正教会がある。
この東方正教会こそが、かつてのビザンティン帝国の国教であり、ビザンティンの人々はこの正教会と密接にかかわって生活していた。

そもそも西方と東方の教会が分裂したきっかけは聖像破壊令という教義上の問題であったが、1054年に最終的な分裂に至った原因はどちらかというと教義上の問題よりもローマ対コンスタンティノープルの主導権争いやラテン・ゲルマン文化とギリシャ文化の相違といった、政治・文化的対立によるもので、聖像破壊問題が解決した後の教義上の問題は「フィリオクエ問題」だけであった。

そんなこんなで分裂した東方正教会は、一時帝国の末期に東西の教会統合が行われたものの帝国の滅亡で立ち消えとなり、そのまま現在でも東欧・ギリシャに存続している(注2)。なお、東方正教会の主張によれば、その名の通り正教会こそが正統なキリスト教会であり、ローマ・カトリックなどはそこから分派していったものだ、となる。

ロシア・東欧諸国の保守・後進性の原因とされ(注3)、旧ユーゴではカトリックを信仰するクロアチア人、スロベニア人と正教を信仰するセルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人、イスラム教を信仰するボスニアの「ムスリム人」、コソヴォのアルバニア人の争いが凄惨な殺し合いになり、セルビアが悪役となるなど、とかく良くないイメージとなってしまった正教会。ここでは、その正教会と西方の教会との違い、ビザンティン帝国との関わり、その歴史と現状とについて軽く触れる予定である。

東方正教会の立場から見た、ものすごく大まかなキリスト教会分裂の系譜
325
ニカイア公会議
431
エフェソス公会議
451
カルケドン公会議
726-
聖像破壊運動
1054
東西教会分裂
1517-
「宗教改革」
16C以降
アリウス派 →ゲルマン人へ 後に消滅
アタナシウス派 ネストリウス派 →ペルシャ・アジア内陸部・中国(景教)、アッシリア正教会へ
正統派 単性派 アルメニア正教会
(アレクサンドリア) コプト(エジプト)教会 コプト教会
エチオピア正教会
(アンティオキア) シリア正教会
正統派(カルケドン派) (コンスタンティノープル) 東方正教会 ギリシャ正教会
ロシア正教会他
(ローマ) ローマ・カトリック ローマ・カトリック教会
プロテスタント ルター派
英国国教会
カルヴィン派
その他新教諸派

本来は、他に東方典礼カトリックとか、ボゴミル派(東)だのカタリ派(西)だのあるのだが、ややこしいので省略。
また東方正教会にもアンティオキア、アレクサンドリアの各総主教がいて、コプト教会やシリア正教会の総主教と並立しているが、ここでは省略。

注1:精霊は父である神だけから発するのか、子であるイエスからも発するのか、という極東の異教徒には些末なことにしか思えないような問題。

注2:かつてはコンスタンティノープル総主教座がまとめていたが、現在では各国の教会がそれぞれ独立して存在する(例:コンスタンティノープル総主教庁、ギリシャ正教、ロシア正教、セルビア正教、ウクライナ正教、日本ハリストス正教会など)。そのため、しばしば東方正教と同義で扱われる場合の「ギリシャ正教」は広義の定義であり、狭義で言う「ギリシャ正教」はギリシャ共和国一国のみの正教会を意味する。現在のコンスタンティノープル総主教は、各国の総主教の名義上の筆頭(エキュメニカル総主教)に過ぎず、ローマ教皇も東方正教側からすれば西方を管轄する総主教の一人に過ぎない。
なお、1960年代以降、ローマとコンスタンティノープルの相互破門取り消しなど、ローマ・カトリックと東方正教会の和解・再統合が模索されているが、東方正教会内でも、権威はあるがトルコにあるため信徒が少ないコンスタンティノープル総主教庁(和解に積極的)などと、信徒数では最大のロシア正教会(和解には消極的)などとでは足並みがそろわず、進展していないのが現状である。

注3:旧ソ連の体制は、聖師父を「マルクス・レーニン」、教会を「共産党」、聖書を「マルクス・レーニンの著作」と置き換えるとぴったり符合していた。(「ソビエトとロシア」講談社現代新書)



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