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ロシア人 |
ロシア他、旧ソ連各国 |
ロシア語 |
キリル文字 |
東方正教会 |
ウクライナ人 |
ウクライナ |
ウクライナ語 |
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ベラルーシ人 |
ベラルーシ |
ベラルーシ語 |
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ポーランド人 |
ポーランド |
ポーランド語 |
ラテン文字 |
ローマ・カトリック教会他(一部はプロテスタント) |
チェコ人 |
チェコ、スロヴァキア |
チェコ語 |
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スロヴァキア人 |
スロヴァキア、チェコ |
スロヴァキア語 |
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ソルヴ人 |
ドイツ東部 |
ソルヴ語(上下) |
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カシューブ人 |
ポーランド北部 |
カシューブ語 |
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スロヴェニア人 |
スロヴェニア |
スロヴェニア語 |
ラテン文字 |
ローマ・カトリック教会(ボスニア居住の一部はイスラム教) |
クロアチア人 |
クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ他 |
セルボ・クロアート語 |
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セルビア人 |
セルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ他 |
キリル文字 |
東方正教会(ボスニア居住の一部はイスラム教) |
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モンテネグロ人 |
モンテネグロ |
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マケドニア人 |
マケドニア他 |
マケドニア語 |
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ブルガリア人 |
ブルガリア他 |
ブルガリア語 |
ビザンティン帝国史では、一時期(キュリロス・メトディオスが布教した9世紀のモラヴィア)を除いて西スラヴ諸民族とはあまり関係がなく、東・南スラヴ諸民族が重要に関わってくる(だから日本での歴史書が「ビザンツとスラヴ」という風に全スラヴを一緒に扱ってしまうのは、やや無謀とも言える)。
このことは宗教が東・南スラヴ族が東方正教会(20世紀初頭までオーストリア・ハンガリー帝国領だったクロアチア・スロヴェニアと、オスマン・トルコ帝国支配下でイスラムに改宗したボスニア・ヘルツェゴビナの「ムスリム人」を除く)で、西スラヴ族だけカトリックであるということを見ても明らかに分かるであろう。
記録にスラヴ人らしき名前が最初に出てくるのは、6世紀のビザンティン帝国の記述に「ヴェネティ、スクラヴェニ、アント」というのが出てくるのが最初であるが、スラヴ人の原住地はもともと現在の居住地域に住んでいたと言う説や、カルパチア山脈の北(現在のウクライナ)あるいは黒海・アラル海沿岸から移住したという説など、諸説あってはっきりしていない。
ともかくスラヴは、現在のポーランド周辺にいたゴート人(ゲルマン系)がフン族の攻撃に耐えかねて西方へ移動した、いわゆる「ゲルマン民族大移動」のさなかに、ゴート人と共に、あるいは後を追うようにして西方へ移動した。
6世紀になるとフン族がパンノニア(現在のハンガリー)方面へ去った後、スラヴは黒海、ドナウ流域に移住し、アッティラの帝国崩壊後のフン残存勢力やその従属下にいたトルコ系遊牧民族のブルガール人(後にスラヴ化してブルガリア人となる)とともにドナウ川(古代ローマ帝国以来の国境線)を越えて東ローマ(ビザンティン)帝国へ侵入するようになった。が、当時の皇帝ユスティニアヌス1世は西方の領土奪還に没頭していたためにこれにあまり対処せず、その間にスラヴ人は帝国内の諸都市を略奪・破壊し、遊牧民族の侵入で荒廃・無人化していた農地を徐々に占領・定住していったのである(これは侵食、と言えるかもしれない)。
ユスティニアヌス死後の帝国の混乱に乗じてスラヴは、新たに現れた遊牧民アヴァール人やブルガール人と共に帝国への侵入を更に繰り返し、626年にはササン朝ペルシャと共同でアヴァール・スラヴ軍がコンスタンティノープルを包囲するまでに至った。この時は総主教セルギオスの督戦と強力な海軍、そして難攻不落の大城壁によって撃退され、アヴァール人は北方へと戻った。が、定住農耕民のスラヴはアヴァールが戻った後も帝国内に留まりつづけ、さらにペロポネソス半島やクレタ島まで進出、その圧倒的な数でバルカン半島の大半を占領したのである(注1)。その数の多さはトルコ系の遊牧民であったブルガール人さえ同化してしまったほどであったのだ。帝国政府の威令は首都コンスタンティノープルやテサロニカの周辺、アテネなどのギリシャの沿岸部の諸都市にしか及ばなくなってしまったのである。
この様な状況に対してイサウリア朝以降、帝国は次第にブルガリアに対して逆襲に出る。例えばコンスタンティノス5世"コプロニュモス"(在位:741−775)の遠征のように、武力で領土を奪還していったのである。
しかし、その道のりは決して平坦なものではなかった。9世紀にはブルガリア遠征帰途の皇帝ニケフォロス1世がクルム・ハーンに襲撃・殺害され(ニケフォロスの頭蓋骨は銀箔を貼られ、クルム・ハーンの酒杯にされたという)、10世紀にはコンスタンティノープルまで攻め寄せたシメオン王に対して「ブルガリア人の皇帝」という称号を認める羽目になるなど、まさに死闘とも苦闘ともいうべき戦いが続けられたのである。
その際帝国はアヴァールやブルガリアを牽制すべく、帝国はその背後のセルビア・クロアチア人、次いで10世紀頃からは「ルーシ」と同盟を結んだ。セルビア・クロアチア人はもともとはコーカサス系民族がスラヴ化したもので、現在のポーランド周辺にいたのが南下してきた民族であり、「ルーシ」は現在の東スラヴ三民族の原型で(まだ分化していなかった)、ノルマン人らとともにキエフ・ルーシ(キエフ大公国)を建国していた。スラヴ人の国を撃つのにスラヴの力を用いるあたりに「夷を以って夷を制す」という帝国の対外政策を読みとることができるだろう。
その一方で帝国は、こうしたスラヴ諸民族へキリスト教の布教を推し進め、コンスタンティノープル教会の影響下に入れていった。例えば、皇帝ミカエル3世の命を受けた「スラヴの使徒」キュリロス・メトディオス兄弟によるモラヴィア(現在のチェコ)への布教である(これ自体は不首尾に終わった)。その際彼らはスラヴ語での布教・典礼用の文字を考え出した。これは彼らが考え出したとされるために「キリル文字」(現在でも用いられている)と呼ばれているが、彼らが作ったのは「グラゴル文字」であり、キリル文字はのちにグラゴル文字とギリシャ文字をもとにして作られたものである(注2)。ともかくこれによってスラヴ諸民族は文字を持つようになったのである。
やがてブルガリアではボリス王が864年にキリスト教に改宗、キエフ・ルーシも後にキリスト教を受け入れることとなる。
また、ブルガリアやキエフ・ルーシと通商関係を結んで帝国の進んだ文物を伝えたり、武力で奪還した地域に小アジアやシチリア、南イタリアへ逃れていたギリシャ人を移住させるなどして、バルカン半島への再ギリシャ化・ギリシャ−ビザンティン文化の普及を推し進めていった。こうして東・南スラヴ諸民族はキリスト教と共にビザンティンの文化を受け入れるようになっていったのである。
やがてマケドニア王朝の下で全盛期を迎えた帝国は、皇帝バシレイオス2世が1018年にブルガリアを滅ぼしてバルカン半島のほぼ全域の領土を回復し、この地域のスラヴ系諸民族を支配下に置いた(注4)。文化・宗教での影響力に至っては北の方ロシアの地にまで及ぶようになったのである。
しかし、11世紀以降の帝国の弱体化などにより、スラヴ諸民族は帝国の支配下から離れていった。その後コムネノス朝時代にいったんビザンティン側の巻き返しもあったが、12世紀後半に入るとブルガリア、次いでセルビアが最終的に独立し、逆に帝国を圧迫するようになっていった。しかし、ブルガリアの諸帝にしろセルビアのステファン・ドゥシャン王(彼は「セルビア人とローマ人の皇帝」を名乗った)にせよ、目標はコンスタンティノープルであり、帝国の法律に影響を受けた法典を出し、正教の教義を強く標榜した(その後の南スラヴ系諸民族は、ビザンティン帝国を滅ぼしたオスマン・トルコ帝国とオーストリア・ハプスブルク家の支配下に分裂していく)。
ビザンティン帝国の滅亡後、ルーシのモスクワ大公は「ツァー(皇帝。ビザンティン帝国の爵位である「カイサル」に由来する言葉)」を名乗って帝国の双頭の鷲の紋章を紋章とし、モスクワは「第3のローマ」と称し、東方正教の擁護者を標榜した。やがて、モスクワ大公国は東スラヴ三民族を、後にはシベリアやポーランドを支配するロシア帝国となり、ロシア皇帝はビザンティン皇帝顔負けの専制君主として振る舞った。これが実に20世紀初頭まで続いていったのである。(注4・5)
こうして「ビザンティンの教え子」東・南スラヴ諸民族はいまでもビザンティンの伝統を伝える存在となっているのである。
注1:その際にギリシャ人と混血していった。(「ギリシャ人」の項参照)
注2:ここで注目すべきなのは、ローマ・カトリック教会がヘブライ・ギリシャ・ラテン語以外の聖書や典礼を認めなかったのに対して、コンスタンティノープルの教会はスラヴ語での聖書・典礼を認めていたことである。これは実に、西方教会でマルティン・ルターがドイツ語の聖書を出すより600年も前のことなのだ。
注3:もともと同じであったセルビア・クロアチア人であるが(今でも言葉は、日本語でいう東京と大阪の差くらいしかないらしい)、東方正教とローマ・カトリックとの境目にあるクロアチアは9世紀にローマ教会側に入り、政治的にはビザンティン帝国の主権下(実際はヴェネチアの管理下)で自治を保った。また、セルビアは13世紀頃までコンスタンティノープル、ローマ両教会と関係を持っていた。結局クロアチアはハンガリー、次いでハンガリー王となったオーストリア・ハプスブルク家に、セルビアはオスマン帝国に分かれて支配された。
注4:11世紀前半まで繁栄を誇ったキエフ大公国は、11世紀後半から分裂・衰退し、ルーシは諸侯が争う時代となった。さらに13世紀にはモンゴル人(キプチャク・ハン国)の支配下に入るのである(「タタールのくびき」)。その過程で、荒廃したドニエプル川流域(キエフ地方)からモスクワなどのある北東ルーシへと人が移住した。
注5:旧ソ連崩壊後のロシアの国章は、かつてのロシア帝国の紋章だった「双頭の鷲」である。
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