ローマ(ビザンツ)帝国を最終的な滅亡に至らしめた、1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープル攻撃の開始について、ネット上を見ると「1453年4月2日」とされていることが多いようなのですが、女子美術大学の平野智洋先生がその件について、メールを下さいました(以下引用)。
包囲戦の開始日をいつとするのか、という点については諸説ありますが、少なくともオスマン軍の城壁前到着と露営・配備を以て開始日とするというのが大凡の見解であるようです。
オスマン軍到着の日付について、
(1) ゲオルギオス・スフランヅィス『回顧録(小年代記)』は4月4日と記しています。
(2) ニッコロ・バルバロは4月5日昼1時(午前7時頃)と記しています。
(3) ジャコモ・テダルディは4月4日に最初に到着し、5日に移動接近した事を記しています。
(4) ヒオス司教レオナルドは4月4日に到来し、5日に露営したと記しています。
(5) ドゥカスは包囲開始が4月6日の事であると記しています。同時代記録は概ね4月4-6日の間にオスマン軍が到着し配備が行われた事で一致しているようです。この記録を整理して、(6)フィリピディス&ハナクによる現在最新の研究も、オスマン軍の到着・包囲の開始をこの3日間と結論しています。
では、4月2日というのはどこから出てきたのか。
平野先生によれば、
4月2日を包囲開始日とする見解は、(7)スティーヴン・ランシマン『コンスタンティノープル陥落す』に見られます。それによると、本隊の到着前に先遣隊が到着し、それと守備隊の間で交戦があったという事になっているのですが、これについてはあまり明確な典拠が見られません(いくつかの史料が記すオスマン軍別働隊の攻撃は首都の直近ではなく、もう少し離れたシリンヴリア・メシンヴリアへの襲撃の事で、これを取り違えたものと見られます)。4月2日という日付については、スフランヅィスを基に1世紀後に編纂された(8)マカリオス・メリシノス『大年代記』の記録によるようです(ただし、先遣隊の記録ではなく本隊の到着の日付です)。なお、同日にオスマン艦隊の来襲に備えて金角湾に鎖が下ろされた事を(9)バルバロが記しています。
つまり16世紀に書かれた『大年代記』を参照して書いた、ランシマンの『コンスタンティノープル陥落す』に書かれていた日付が広まってしまった結果だということのようです。実際には4月2日にオスマン軍とコンスタンティノープルの守備隊が交戦に至ったということを裏付ける同時代の史料はなく、唯一バルバロが4月2日に金角湾に鎖が設置されたことに言及していますが、これも予防措置として行われたことであって、オスマン軍が来たから行われたものではないとのことです。
また4月2日という日付とオスマン軍の動向を結びつける16世紀の『大年代記』もスルタンと本隊の到着を記したものであり、先遣隊の到着や活動を記したものではなく、『大年代記』の原史料となった同時代史料スフランヅィスはオスマン軍到着の日付を4月4日としており、『大年代記』編纂の過程で日付への変更が加えられたのではないか(単なる転写ミスなのか意図的な改変なのかは不明)というのが平野先生の見解です。
なお、余談ですが、ジョナサン・ハリスの『ビザンツ帝国の最期』には「4月の初め」としか書いてありませんでした。
情報をお寄せ下さった平野先生、ありがとうございました。
(1) Giorgio Sfranze, Cronaca, a cura di R. Maisano, Roma, 1990, 132; 平野智洋訳「ゲオルギオス・スフランヅィス著『回顧録(小年代記)』(3)」『東海史学』47(2013), 79.(2) Nicolò Barbaro, Diary of the Siege of Constantinople, trans. J. R. Jones, New York, 1969, 27.(3) The Siege of Constantinople 1453: Seven Contemporary Accounts, translated by J. R. Melville Jones, Amsterdam, 1972, 3.(4) J. R. Melville Jones, The Siege of Constantinople 1453, 15.(5) Ducas, Historia Turco-Bizantina(1341-1462), ed. V. Grecu, Bucreşti, 1958, 327; H. J. Margoulias (trans.), Decline and Fall of Byzantium to the Ottoman Turks By Doukas: An Annotated Translation of “Historia Turco-Byzantina,” Detroit, 1975, 210.(6) M. Philippides- W. K. Hanak, The Siege and the Fall of Constantinople in 1453. Historiography, Topography, and Military Studies, Surrey- Burlington, 2011, 574-575.(7) S. Runciman, The Fall of Constantinople 1453, Cambridge, 1965 86; スティーヴン・ランシマン(護雅夫訳)『コンスタンティノープル陥落す』新装版, みすず書房, 1998, 133-134. 同じく4月2日を包囲開始日とする見解は、M. C. Bartusis, The Late Byzantine Army. Arms and Society, 1204-1453, Philadelphia,1992, 122; D. M. Nicol, The Last Centuries of Byzantium 1261-1453, Cambridge, 1993, 382.(8) Georgios Sphrantzes, Memorii 1401-1477. În anexă Pseudo- Phrantzes: Macarie Melissenos,Cronica 1258-1481, ed. crit. de V. Grecu, Bucureşti, 1966, 382; M. Philippides, The Fall of the Byzantine Empire: A Chronicle by George Sphrantzes, 1401-1477, Amherst, 1980, 101.(9) Barbaro, Diary, 24-25; Philippides&Hanak, Siege and the Fall, 574.
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[…] いのか?という話題がありました。これについても、「1453年のオスマン軍によるコンスタンティノープル攻撃はいつからだったのか」同様、女子美術大学の平野智洋先生からメールを頂 […]