ビザンティン帝国略史
落日の老帝国
後期 その1
1.落日の老帝国
つかのまの復活(ニカイア帝国・パライオロゴス朝1)
第4回十字軍によるコンスタンティノープルの陥落後も、旧帝国領の各地でギリシャ人達が亡命政権を立てた。例として挙げられるのは、トレビゾンド帝国(コムネノス家)、エピロス専制候国(アンゲロス家)などであるが、もっとも力をつけたのは小アジアのニカイアを首都としたニカイア帝国(ラスカリス家)である。
ニカイア帝国は、初代のテオドロス1世ラスカリス(在位:1204-1222)、ヨハネス3世ドゥカス・バタヅェス(在位:1222-1254)らの農業振興などによる経済力の増大と、モンゴルの侵入によるトルコやブルガリアの弱体化という偶然によって勢力を拡大、西欧人勢力や他のギリシャ人勢力に対して優位に立つようになり、小アジアの西半分とバルカン半島南部を制圧したが、コンスタンティノープルの奪回だけはなかなか果たせなかった。
そのような中で、皇帝テオドロス2世(在位:1254-1258)が若くして死去。狡猾な大貴族ミカエル8世パライオロゴス(在位:1261-1282)は、幼帝ヨハネス4世(在位:1258-1261)の摂政、そして共同皇帝となり虎視耽々と単独皇帝の地位を狙っていた。
1261年、ついにニカイア帝国はコンスタンティノープルを奪回してビザンティン帝国が復活した。これを機会にミカエル8世はヨハネス4世を廃位して単独皇帝となり、帝国最長にして最後の王朝であるパライオロゴス王朝を創始した。
帝国は復活したが、その姿はもはや地中海の覇者でも東欧世界の盟主でもない一国家に成り下がっていた。そして、それさえアンジュー伯シャルルなどの西欧勢力に再征服を狙われていた。ミカエル8世は、外交戦略を巧みに駆使して帝国領を西欧勢力から防衛し、荒廃した首都コンスタンティノープルの再建に努めたが、息子のアンドロニコス2世(在位:1282-1328)が軍事・経済政策を誤り、ビザンティン帝国は再建されてからわずかのうちに再び弱体化していくことになる。
その頃東方ではオスマン・トルコ帝国が興隆、帝国を脅かすようになり、また西方ではセルビア王国が帝国領に侵入、経済はイタリアの諸都市の手に握られ、しかも国内では相変わらずの帝位争い……とまったくいいところがなく、帝国はみるみるうちに衰退、領土的には「帝国」とは呼べないほどの小国となってしまった。
窮地の中、一部の人々は「ギリシャ人」という自覚を取り戻し、古代ギリシャ文化に自らの栄光を見出そうとしたため復古的な文化の花が開いた(パライオロゴス朝ルネサンス)。それはまさに帝国最後の輝きといってよいものであった。
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