中期 その1
A 帝国再興への苦闘と聖像破壊(イサウリア朝・アモリア朝)
この滅亡の危機を救ったのは、テマ(軍管区)制度(地方軍の長官が民政をも兼ねること。中国史に詳しい人は、唐末五代の節度使を思い浮かべるとなんとなくわかると思う)による農民の動員と「ギリシャの火」と呼ばれる一種の火炎放射器の力だった。イサウリア(シリア)王朝の開祖皇帝レオーン3世(在位:717-741)は、718年にコンスタンティノープルを包囲したアラブ人を撃退、以後アラブ人の大規模な侵入はなくなり、レオーン3世による法典の再整備や、その息子コンスタンティノス5世"コプロニュモス"(在位:741-775)もバルカン半島のスラヴ人などへの再征服を行い、領土、宗教、制度などの点で古代ローマ帝国の面影を失った帝国は「中世キリスト教ローマ帝国」として再スタートを切った。
ところがレオーン3世、コンスタンティノス5世は、聖像破壊令を発布。これの是非をめぐって聖職者を2分する争い(聖像破壊論争)が起き、ローマ教皇とも関係が悪化。それまでいちおうローマ=ビザンティン皇帝の指導権を認めていたローマ教皇は、それ以後帝国と完全に袂を分かち、797年にローマ帝国史上初の女帝エイレーネー(在位:797-802)が息子のコンスタンティノス6世(在位:780-797。コンスタンティノス5世の孫)から帝位を簒奪して即位したのを機に、「正当なローマ皇帝はコンスタンティノスで絶えた。女帝は認めない」としてフランク王カールを「ローマ皇帝」に担ぎ出してビザンティン皇帝に対抗するようになった。
ここに西ローマ帝国滅亡後もかろうじて維持されてきた地中海世界の統一は、イスラム帝国・フランク王国などの西欧諸国・ビザンティン帝国の3つに、完全に分裂することとなったのである。
そんな聖像破壊の嵐も787年にはおさまり(最終的に終結するのは843年)、帝国は新たな発展を迎えようとしていたが、ブルガリアとの抗争、アッバース朝イスラム帝国との戦いや国内のテマの反乱、そして相変わらずの帝位争いなど、まだまだ苦闘は続くのであった。
*聖像破壊令とは−簡単に言ってしまえば、教会に置かれているキリストや聖母マリアの像や、彼らを描いた絵画に向かって礼拝するのは旧約聖書の「モーゼの十戒」で禁じられている「偶像崇拝」にあたるのでそれを禁止し、像を破壊する、という命令のことである。
この命令が発令された背景には、
という、ビザンティン帝国特有の事情 の2点が挙げられる。レオーン3世が東方のシリア出身であり、かつイスラムの首都包囲を撃退した皇帝だった、ということも、彼に聖像破壊令を出させた大きな要因でもあったようだ。 しかし、ローマ教皇はゲルマン人のキリスト教化のためには聖像が必要だと考えており、またギリシャ人達も古代の記憶からか抽象的な神のみの礼拝には抵抗があったようである。このため帝国内でも小アジアや帝国の中央軍では 聖像破壊派が多かったが、ヨーロッパ側では聖像擁護派がほとんどでギリシャでは反乱が起きるほどであった。かくして787年の第2ニカイア公会議で聖像崇拝が復活するが、その後も何度か聖像破壊が行われ、9世紀まで対立は残った。東方正教会では平面の絵(イコン)のみが用いられるようになり、現在に至っている。
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