ヘラクレイオス(?-641) | Ηρακλειοζ |
Herakleios |
■ローマ皇帝(在位:610-641)
■父:カルタゴ総督ヘラクレイオス
母:?
■配偶者1:エウドキア(610-612頃)
配偶者2:マルティナ(姪)(613頃-641)
■子:エピファニア、ヘラクレイオス・コンスタンティノス(コンスタンティノス3世(ローマ皇帝:641) )-エウドキアとの子
ヘラクロナス(ローマ皇帝:641)、ダヴィド-マルティナの子(マルティナとの間にはあわせて9人の子をもうけたが、4人は夭折)
ヘラクレイオス―歴代皇帝の中で彼ほど栄光と挫折を味わった人間は他にいないだろう。彼の名は古代ギリシャ神話の英雄ヘラクレスにちなんだものであり、実際に彼は勇気をもって帝国の難局にあたったが、その最期はまことに不幸なものだった。彼は古代から中世への大きな歴史のうねりに押し潰されてしまった悲劇の英雄であった。
彼の家系はアルメニアの名門の血を引く小アジア・カッパドキア地方の貴族であった。彼の父のヘラクレイオス(同名)はマウリキウス帝(在位:582-602)の時代に対ペルシャ戦争で活躍した将軍で、カルタゴ総督であった。608年、カルタゴ総督ヘラクレイオスは首都の貴族や一部市民の支持を受けてマウリキウスから位を簒奪したフォカス帝(在位:602-610)に反旗を翻し、その軍隊はたちまちエジプトを制圧。いっぽう息子であるのちの皇帝ヘラクレイオスは610年、艦隊を率いてコンスタンティノープルへ向った。対抗策の一つとしてフォカス帝はヘラクレイオス(子)の婚約者であるエウドキアを人質にしたが、かえってそれがヘラクレイオスを発奮させたらしい。
反乱軍は610年10月にコンスタンティノープルに迫り、わずか2日であっけなく首都はヘラクレイオスの軍門に下り、捕らえられた皇帝フォカスは処刑された。フォカスの8年間の治世は内乱と外敵の侵入の連続であったため首都の市民や貴族に人気が無かったのだ。かくしてヘラクレイオスが皇帝に即位し、皇后にはフォカスから奪い返したエウドキアを立てた。
この頃の帝国は、東方ではホスロー2世率いるササン朝ペルシャ帝国が、イタリアではゲルマン系のランゴバルト人が、北方では遊牧民のアヴァール人やスラヴ人が帝国の領土を蚕食、さらにはキリスト教の解釈をめぐるカルケドン派と非カルケドン派との対立が激化して国内は分裂状態、ほんの60年ほど前のユスティニアヌス帝の下での繁栄はどこへやら、帝国は大混乱に陥っており、土地も民も疲弊していた。そんな折であったから、彼は救国の英雄として首都市民の期待の歓呼をもって迎えられたのである。
注1-イエスは神と人の両方の属性を持つとする一派。いわゆる「正統派」。現在の東方正教会・ローマ・カトリックなどはこの系譜。451年のカルケドン公会議で定められた教説なので、こう呼ばれる。
注2-イエスに神としての属性しか認めないという一派。東方に多かった。いまでもアルメニア・シリア・エジプト(コプト教)・エチオピアなどに残っている。
そんな期待を集めて即位した彼であったが、即位して後は、首都まで攻め上ってきたときの気力はすっかり失せてしまい、首都の宮殿で無為に過ごす日々が続いた。即位してまもなく息子のコンスタンティノス(後の皇帝コンスタンティノス3世 在位:641)を残して妻のエウドキアが亡くなってしまったためとも言われているが、理由は良く分からない。これを「英雄の謎の無気力」と呼ぶ人もいる。もっとも、動こうにも異民族の侵入と自らの即位時の内乱で軍隊は疲弊、崩壊してしまっていたから何も出来なかったのかも知れないのだが(マウリキウス帝が書いたとされ、7世紀に最終的な形が出来た『戦術書』によると、5世紀には65万を擁していたローマ帝国軍は578年にはわずか6400未満に減少していたという)。
そうこうしているうちにササン朝ペルシャの軍隊は、611年にはアンティオキアを占領。614年にはエルサレムが陥落し、「聖なる十字架(コンスタンティヌス大帝の母へレナが発見したという、イエスが磔刑にされたときに使われた十字架とされる)」が奪われ、キリスト教帝国であるビザンティン帝国は精神的な大打撃と屈辱感を与えられた。ついにはペルシャ軍は小アジアへ侵入し、615年には首都の対岸にまで迫ったのである。さらには、617年から619年には最大の穀倉地帯であるエジプトを失い、ササン朝は古代のアケメネス朝ペルシャ帝国の最大版図を再現しそうな勢いであった。この期に及んでも彼は何もせず、皇帝ではなくコンスタンティノープル元老院が講和の使者を出している。
講和が拒絶され、いよいよ首都が危なくなると、ヘラクレイオスは船でカルタゴへ逃亡しようと図った。ここで彼が逃げ出していたら帝国は滅亡していたかもしれないのだが、結局彼は逃げなかった。先に財宝を載せて送り出した船が沈んでしまったのである。彼はそこに何かの運命を感じたのであろうか、市民や総主教の求めもあって首都に留まり、ローマ皇帝として戦うことを決意したのである(この無気力状態から、いきなり英雄的になったことについては、井上浩一「ビザンツ皇妃列伝」では姪のマルティナと再婚したことと、前掲のエウドキアの例を挙げて、彼は恋愛という要因がないと動けない人間だったのではないかという、興味深い意見が述べられている)。
ペルシャへの反撃を決意したヘラクレイオスであったが、まずは戦費の調達と崩壊した軍隊の再建から始めなければならなかった。この頃、国家の財政は破綻してしまっていたのだ。まず穀倉地帯のエジプトを失ったことを理由に首都市民への穀物配給を廃止、古代以来の「パンとサーカス」に終止符を打った。さらに今回の戦いは「聖十字架を奪い返すための聖戦である」と主張し、総主教セルギオス1世(在位:610-638)の協力を得て教会財産の提供を受けた(この時鋳造された銀貨にはラテン語で「神ローマ人を救い給う」、銅貨にはギリシャ語で「このしるしと共に勝利せん」と刻印された。この時はまだラテン語が公用語として使われたのであろうか)。
619年、ヘラクレイオスは首都の防衛を総主教セルギオスと将軍ヴォノスに託し、軍隊の再編成を行った。この時彼が編成した軍隊は、皇帝の親衛隊の他は首都やトラキア・小アジアのギリシャ人を中心とした寄せ集めの軍隊で、まず戦闘の訓練からはじめなければならなかった。622年4月、ヘラクレイオスは復活祭の儀式を済ませると、再婚相手の姪マルティナを伴って6年にもわたるササン朝ペルシアとの死闘へと出陣した。ローマ皇帝が自ら前線に赴いたのは、実にテオドシウス大帝以来のことであった。
この時彼がとった戦術は小アジアやシリア・エジプトにいるペルシャ軍と当たるのではなく、直接ペルシャ帝国の本拠地であるメソポタミアを攻撃し、占領地からペルシャ軍を撤退させようというものである。なぜ彼がこの時占領地のペルシャ軍を攻撃しなかったのかというと、占領されているシリアやエジプトではキリスト教の教義上の対立や長年にわたる搾取(特にエジプトは穀物の厳しい収奪にあっていた)によって民心がビザンティン帝国から離れており、むしろササン朝の支配を歓迎していた向きさえあったので、これらの土地でペルシャと戦う自身が持てなかったからであった(同様の理由で、後にこれらの地域はあっさりイスラムの手に渡ることになる)。まずは帝国軍はカッパドキアに至り、そこで訓練を積むとアルメニアへ侵攻(このころアルメニアで初めてテマを設置したという説がある)、小アジアの回復には成功したがペルシャのホスロー2世は和平を拒否した。翌年、アヴァール族が首都に迫ったために一時帰還を余儀なくされるが貢納金の増額などで解決させ、以後は首都に帰らずペルシャとの戦いに明けくれることになる。以後の彼の戦いぶりを箇条書きに記しておこう。
最大の敵ペルシャを下し、すべての東方領土を奪回したヘラクレイオスだったが、すぐに新たな問題を抱えることとなった。まず一つ目は奪回したシリア・エジプトでの非カルケドン問題の再燃だった。ヘラクレイオスはセルギオスの提案を受けて「両性単意論(キリストは神・人二つの本性と一つの意思を持つ)」という単性・両性(カルケドン信条)の両方の説の折衷案を出して双方をまとめようとしたが、双方から反発を受けて失敗した。
二つ目は、そんな論争を吹き飛ばしてしまうような世界史上の大変動であった。実はヘラクレイオスがペルシャ遠征に出発した622年には世界史の上での大事件が起きている。それはイスラム教の開祖「預言者」ムハンマドがメッカからメディナへ移った、聖遷(ヒジュラ。イスラム暦元年)である。ムハンマド率いるイスラム教徒たちは瞬く間に勢力を拡大、アラビア半島のほぼ全域を制圧。さらにムハンマドとその軍隊は次いで630-631年にシリアでビザンティンと戦った。この遠征は失敗し、ムハンマドは632年にメディナで死去したが、彼の遺志を継ぐアラブ人たちは634年にはシリアへ侵入を開始、635年にはダマスカスを占領、ようやくペルシャに勝利したばかりのビザンティンには新たな敵を食い止める力は残っていなかった。それでもヘラクレイオスは残された力を振り絞り、636年には大軍を率いてシリアのヤルムーク河畔でイスラム軍と戦ったが壊滅的な敗北を喫し、ヘラクレイオスは「シリアよさらば、何と素晴らしい国を敵に渡すことか!」(井上浩一著/中央公論社「世界の歴史11 ビザンツとスラヴ 第1部」p47-48より)という悲痛な言葉を残して撤退せざるを得なかった。
その後シリア・パレスチナ・エジプトと、ペルシャから奪回したばかりの土地を次々と失い、ササン朝ペルシャも642年には崩壊することになるのである。敗北のショックの余りヘラクレイオスは病に倒れ、自らの生涯を賭けた大事業が崩れ去っていくのをなす術もなく見送るしかなかった。
彼の晩年は失意の日々が続いた。イスラムの攻撃の前に崩れ落ちて行く帝国、それに家庭での不幸が重なったのだ。ヘラクレイオスには前妻エウドキアとの間にコンスタンティノス3世(在位:641)、姪で後妻のマルティナの間にヘラクロナス(在位:641)、ダヴィドがいた。マルティナ自身はよく皇帝に尽くし、ペルシャ遠征にも同行したし、皇帝も彼女のことを深く愛していた。しかし、マルティナとの結婚は近親結婚であったため法に反しており、マルティナは人々に嫌われていた。中には皇帝の弟テオドロスのようにイスラムの侵入は法に反した結婚による神罰だというものさえいたのだ。宮廷内ではコンスタンティノス3世派とヘラクロナス派に分裂、しかもマルティナは宗教的に非カルケドン派寄りで、カルケドン派はコンスタンティノス3世を支持したから事情は複雑だった。そんな状況に心を痛めながらヘラクレイオスは641年2月11日、コンスタンティノープルで死去した。
ヘラクレイオスが死んだ後も皇室の不幸は続いた。彼は後継者をエウドキアの子コンスタンティノス3世とマルティナの子ヘラクロナス、ダヴィド(ティベリオスに改名)の3人に定めた。長男であるコンスタンティノス一人にしなかったのは、マルティナへの愛情ゆえであろう。しかしこんな状態で上手くいくはずもなく宮廷は対立した。5月にはコンスタンティノス3世が死去。マルティナが実権を握るが、これに首都市民や軍隊、元老院が反発し、11月にはクーデターでヘラクロナス、マルティナ、ティベリオスは捕らえられ、マルティナは舌を切られ、息子達は鼻を削がれて追放された。帝位にはコンスタンティノス3世の息子ヘラクレイオス・コンスタンティノスが即位した。コンスタンス2世"ポゴナトス"(在位:641-668。即位時にヘラクレイオスの名を捨ててコンスタンティノスと名乗ったが、幼少で即位したために「小コンスタンティノス」を意味する「コンスタンス」と呼ばれることになる)である。こうして皇室の不和は血を流して終わったが、その間にもエジプトが占領され(最終的には642年にアレクサンドリアが開城される)、イスラムの怒涛の進撃の前に帝国は滅亡の淵に立たされることになるのである。
ヘラクレイオス自身は有能で積極的な皇帝だった。地中海の再統一を成し遂げたユスティニアヌスが自らは戦地に行かずに、ベリサリウスらの将軍に戦争を任せていたのに対して、彼はゼロに近い状態から軍隊を再建し、自ら前線に立って6年もの間都にも帰らずに戦い続けた。しかし、その結果は余りにも違った。ユスティニアヌスが曲がりなりにも地中海帝国の再建を成し遂げ「大帝」と呼ばれたのに対して、ヘラクレイオスの場合は帝国は危機に陥り、皇室は不和に陥った。彼の晩年は不幸そのものだった。しかも孫のコンスタンス2世はヘラクレイオス・コンスタンティノスという名前だったのに即位時に「ヘラクレイオス」という名前を捨ててしまった。この2人の違いはなんだろう。古代の末期と、中世への転換期という生れた時代のせいなのか?ヘラクレイオスは運が悪かったのか?どんな個人的努力も運命の前にはすべて水泡に帰してしまう、ということなのだろうか(ベートーヴェンの「第5」とか「第9」と逆だな)?
しかし、彼の努力がなかったらどうだろうか?歴史にifは禁物であるが、帝国はもっと早く滅びてしまい、その後中世ビザンティン帝国として再興することもなかったのではないだろうか。彼の生涯は確かに悲劇的だ。しかし決して無駄な一生ではなかったのもまた事実であろう。どんな難局でも勇気を持って立ち向かうことの大切さをヘラクレイオスは今の私達に教えてくれているのかもしれない。
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