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 アヤソフィア博物館 ヒッポドローム モザイク博物館 旧聖セルギオス・バッコス教会 ブーコレオン宮殿 地下宮殿(イェレバタン・サライ)
考古学博物館 トプカプ宮殿(マンガナ地区) ブルーモスク コンスタンティヌスの円柱
二日目は、一般的に旧市街地観光のメインとされているスルタン・アフメット地区を中心に回りました。おおむね一般観光客のような回り方・・・のようですが、一味違います。 

■現地2日目:2012年8月24日(金)
  アヤソフィア博物館(旧ハギア・ソフィア大聖堂) 
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   世界遺産「イスタンブールの歴史地区」を代表する建造物の一つ、アヤソフィア博物館。
   現在のアヤソフィアは、それまでのバシリカ式の聖堂が532年の首都市民の反乱・ニカの乱で焼失した後、ユスティニアヌス1世の命によって現在のような壮大なドームを持つ大聖堂として再建されたもの。
コンスタンティノープル総主教の座所、そして正教会の中心であり、キリスト教帝国であるビザンティン帝国の宗教の中枢として約900年続いた。 1453年のコンスタンティノープル陥落後モスクに変えられたが(周囲の尖塔はその時建てられたもの)、現在は無宗教のアヤソフィア博物館となっている。
日本人観光客の大半がここに来ているだろうが、上記の背景を理解して行ってる人が果たして何人いるか・・・
  アヤソフィアの前は、ビザンティン時代はアウグステイオンという広場だった。そこの舗装がめくってある所を発掘すると、おそらく何か出てくるはずだ。
   門から入口までの通路沿いに並ぶ、明らかにローマ~ビザンティン時代の柱。この柱はもともとどこの何だったのか。ビザンティン時代はこの奥の方に総主教宮殿があった。
   いよいよ入口へ。でもその前に観ておくべきものがある。
   入口の手前にあるのは、ニカの乱で焼失する前のハギア・ソフィア大聖堂(2代目)の遺構。バシリカ式だったと推測されている。
   いよいよ中へ
   外部拝廊 ここは内壁の装飾が全て無くなっている。
おそらく教会として利用していた時は何か装飾されていたはずだ。
   これはビザンティン時代の遺物?
   扉をくぐって、内部拝廊へ。
   内部拝廊は外部と違って装飾が残っている。
   内部拝廊の天井。装飾が細かい
  中央の扉はビザンティン時代は皇帝専用。
   扉の上にはキリストに跪く皇帝の姿を描いたモザイク画がある。
キリストの左に聖母、右に天使のメダイヨン。玉座に座るキリストが持つ書物に書かれているギリシャ語は根津由喜夫先生の『ビザンツ帝国 刻印された千年の記憶』(河出書房新社)によれば、ヨハネの福音書から引かれた「汝に光あれ。私は世の光である」という章句。

跪いている皇帝は、マケドニア王朝第2代のレオーン6世(在位:886-912)説が有力だったが、最近ではそれより前のテオフィロス(在位:829-842)という説もある。
   さあ、いざ身廊へ。
   ドームの高さは床から56メートル。直径が31メートル。この高さ、写真ではイマイチ伝わりにくいが、6世紀、いまから1500年近く前の建造物だということは驚きだ。
高い窓から差し込む太陽の光は、天上の光を思い起こさせる。
   さんざん写真や映像で見て来たが、この空間の圧倒的な大きさは、実際に行ってみないと絶対わからない。写真だとどうしても小さい感じになってしまう。これを体験出来だだけでも、来た甲斐はあったと思った。
   なるべく一般の日本人観光客が撮らなそうなアングルを。
柱頭にはユスティニアヌスの名前のモノグラムが刻まれている。
   床の色が違う場所があるが、ここはビザンティン時代に皇帝が戴冠式を行った場所と伝えられている。
英語の解説板にもそう書いてあるのだが、たぶん大半の日本人観光客は気にも留めていない。
   岩合光昭さんの「世界ネコ歩き」にも出てきた猫「グリ」。大勢の観光客に全く動じない、ここの主(ヌシ)。
ちなみにグリが座っている構造物は、オスマン時代に設置されたもの。
   グリ以外にも猫がいる。
  先ほどの皇帝の戴冠場所は、ロープで囲われて立ち入り禁止になっているのだが、猫様はそんなのお構いなし。
   内陣。上にあるのが843年にイコノクラスム終結を記念して製作された聖母子のモザイク。下にあるのはオスマン朝時代に付けられたミフラーブ(メッカのカアバ神殿の方向を示す)。この街の辿った歴史を象徴する場所がここだと思う。
   上の聖母子像。近くで見るには2階に上がった方が良い。
  観光客が撮らなそうなカット第二弾。あちこちに十字架のモチーフが。
まだ偶像崇拝に対する考え方が厳しい時代の建造物なせいか、こういう抽象的な装飾が多い。
   隅の方も造作が細かい。
  これを保守するのも結構手間がかかりそう。
   2階へ
   2階への通路は階段では無くスロープ。
   2階のギャラリー部分。2階も結構広い。
   奥に見えるアラビア文字の円盤はオスマン朝時代の物。
   女性は下には入れず、2階で儀式に参列した。
二本の柱の間の床の色が変わっているが、そこが皇后席。
   皇后席の背後も広い。
   皇后席からの眺め。
さすが皇后席。儀式を俯瞰するには最適な場所だ。
   大理石のパネル「天国と地獄の門」。この向こうは、ビザンティン時代は一般人立ち入り禁止だったようだ。
   扉の向こうにあるのが「デイシス」のモザイク。
   デイシスのモザイク。1261年にミカエル8世がラテン帝国から帝都を奪回した記念に製作されたと言われている。中央のキリストの顔が、後で出てくる2つのモザイクより写実的なところに「パレオロゴロス朝ルネサンス」の萌芽を指摘する研究者もいる。
左の聖母、右の洗礼者ヨハネの、表情が悲しげだったり物憂げだったりするあたりに、帝国末期の行く末の不安さを読み取りたくなる。
   聖母子とコムネノス朝第2代皇帝ヨハネス2世コムネノス(在位:1118-1143)、皇妃エイレーネー(ハンガリー王女ピロシュカ)。

ビザンティンの比較的著名な皇帝は治績は良くても人間的には一癖ある人物が多いのだが、ヨハネス2世は性格も良く、贅沢もせずに真面目に国家を再建しており、素直に「名君」と呼びやすい皇帝。
   ヨハネス2世の長男、共同皇帝アレクシオス。
アレクシオスはヨハネス2世の跡を継ぐ前に亡くなってしまったせいか、表情も哀しげ。
   キリストと皇帝コンスタンティノス9世モノマコス(在位:1042 - 1055)と皇后ゾエ(コンスタンティノス8世の娘)。
コンスタンティノスの上の文章とコンスタンティノスの顔は明らかに改作された形跡があるが、コンスタンティノスはゾエの3番目の夫なので、ゾエの結婚相手が変わるたびに改修されたものと推測されている。イエスの顔やゾエの顔も若干修正されているが、この理由は分かっていない。
   今は出口となっている部分の上に描かれているモザイク画。
モザイク画だけでは無く、周りの装飾も凝っている。
   モザイク画の題材は聖母子に左のユスティニアヌスがハギア・ソフィア大聖堂を捧げ、右のコンスタンティヌス1世がコンスタンティノープルの街を捧げるという図像になっている。
これは10世紀のモザイク画なので、二人とも在位当時の服装では無い。


日本人のおばさま方が「これは何だ」と言い合っていたので、解説してあげましたw
ヒッポドローム(競馬場跡)
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   競馬場跡の斜め前にある、ミリオン。
ビザンティン時代の道路元標。
   かつての競馬場跡。ビザンティン時代はここで戦車競走が行われていたほか、皇帝即位式、凱旋式、公開処刑などの場所としても使用された。
スタンド部分は殆ど消失してしまったが、中央のコースの部分が広場として残り、コースの間に設置されていたオベリスクなども残っている。
左の尖塔はスルタン・アフメット・ジャミィ(ブルーモスク)のもの。
往年の姿の復元画像はこちら
   この、オベリスクは元は古代エジプト第18王朝のファラオ・トトメス3世(在位:紀元前1479頃 - 紀元前1425頃)のもの。台座にテオドシウス1世とその一家が描かれており、テオドシウスのオベリスクと呼ばれている。
  オベリスクの台座部分。 勝者に栄冠を授ける皇帝テオドシウス1世のレリーフ。皇帝は競馬場の貴賓席に収まっているが、この貴賓席はブルーモスクの位置にあった大宮殿と通路でつながっていて、直接出入りできるようになっていた。
この他の面のレリーフや、下の方のオベリスク建立の様子を描いたレリーフも現場に行かないとなかなかわからない。
   「蛇の柱」
元々はデルフィにあったもので、古代ギリシャ時代にペルシャ戦争の戦勝記念としてデルフィの神殿に奉納されたもの。頭の部分に3つの蛇の頭があったが、現在では失われ、1匹分の頭部分(復元品?)が考古学博物館に所蔵されている
   「コンスタンティノス7世のオベリスク」
といっても、コンスタンティノス7世(在位:913 - 920、944 - 959)は修理させた皇帝で、実際に建てられたのは古代ないしは中世初期と推測されている。石を切り出して作られたエジプトの本物のオベリスクと違い、切石を積んで作られている。
本来は金メッキされた青銅板が貼ってあったが、第4次十字軍がコンスタンティノープルを陥落させたときに引き剥がしてしまったと言われている。
  普通の観光客はせいぜい先ほどのオベリスクまでだが、そこからさらに奥へ進んでいくと、スフェンドンと呼ばれている、競馬場の観客席の遺構に出会う。
なんか崩れてますけど・・・
   さらに回り込んでいくと、競馬場の観客席らしいカーブが分かる場所がある。
上には学校らしき建物が建っている。
 モザイク美術館
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  モザイク博物館は、ビザンティン時代の大宮殿の一角にあった、5-6世紀にブーコレオン港と大宮殿を結ぶ記念門に付属する柱廊の床に描かれていたとされるモザイクを展示している。これらのモザイク画が発見されたのは1952-1954年の発掘によるが、モザイクが作成された正確な年代や目的等は未だに分かっていない。
博物館はアラスタ・バザールの片隅にひっそり佇んでおり、訪れる人もさほど多くないようだ。たぶん日本人観光客はほとんど来ないと思うw
   人気のない館内。
その代りじっくり観られる。
   まだ古代のモザイク技術が十分残っていた作品なので、写実的。
   全部細かい石を砕いて、こうしたモザイクを作るのは現代でも大変だ。
  それぞれは写実的で面白いのだが題材の配置に特にストーリー性も宗教的題材も無いので、何故これらをこうやって並べたのかは謎。
画面中部の、子供らが輪を棒で押してるのは、現代では見かけない。
   アヒルを追う子供という牧歌的題材の上に、蛇とバトルする鹿。
   象とライオンのバトル。
   なぜかやたらと血生臭いテーマ。血の表現がリアルだ。
   鷲とバトルする蛇。弱肉強食な題材が結構多い。
   これは誰なのだろう?
   博物館を出たところにある構造物。
どうみてもオスマン時代のではなさそうだ。
キュチュック・アヤソフィア・ジャミィ(旧聖セルギオス・バッコス教会) 
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  ここは6世紀には皇帝即位以前のユスティニアヌスの居所があった場所。
ユスティニアヌスが即位後に教会と修道院を建設した。現在は教会の建物だけが残っているが、これもアヤソフィア同様1500年近く前の建造物。聖セルギオス、聖バッコスは3世紀にシリアで殉教した聖人。
この教会は、ローマ教皇がコンスタンティノープルへ来た時の居所として使用されたとも言われている。
オスマン帝国時代の1506年から1512年の間にモスクに改装され、第1次世界大戦の時は難民収容所としても使用されていた。「キュチュック・アヤソフィア」とは「小さいアヤソフィア」という意味。
   この辺りは、アヤソフィアと同じ感じ。
   このモスク、つい最近修復されたらしく、すっきり清潔な感じ。
ここも漆喰の下にはビザンティン時代の装飾があるのかもしれないのだが、現役のモスクなのでそれを調べるのは難しいだろう。
 ブーコレオン宮殿
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  大宮殿の一角にあった、マルマラ海に面した宮殿。
ここは特に世界遺産でもなんでもない扱いなのか、現在は荒れるに任せた状態である。
   周囲の城壁もボロボロ。
   崩れそう
   写真には写っていないがどうみても古代の石材の一部としか思えないものも転がっている。城壁の上に家も建ってるし、修復・保存するのは難しそうだ。
 地下宮殿(イェレバタン・サライ)
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  日本人観光客も多い地下宮殿。
ここは6世紀にユスティニアヌス1世によって整備された地下貯水池。78,000立方メートルの貯水量があったとされ、郊外の森からヴァレンス水道橋を通った水がここに貯えられていた。
柱は古代の建造物からの転用が多く、中でも逆さまに置かれたメドゥーサの像が付いた柱は有名である。観光名所になっており、中にはカフェなども営業している。
ビザンティン時代は地上にも建造物があったが、現在では失われている。
   フラッシュを焚くとこんな感じ。
  なぜか魚が。
しかも金魚いるし。
   ちょっと幻想的にしてみた。
   これが古代の遺跡から転用されたメドゥーサ像。
地下貯水池なので、誰も見る訳じゃなく、別にどういう向きでもよかったんだろう。
   メドゥーサ像はもう1つ。
 イスタンブール考古学博物館
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  イスタンブール考古学博物館は、1869年にオスマン帝国の帝国博物館として設立されたのが始まり。当初は旧アギア・イリニ聖堂に置かれていたが、手狭になったため現在タイル博物館として使用されている建物に移転し、さらに1891年に新古典様式の本館が完成した。

トロイなどの古代遺跡の発掘品、有名な「アレクサンドロスの石棺」をはじめとする古代ギリシャ、ヘレニズム時代の展示物が有名だが、ローマ・ビザンティン時代の遺物も多く、付属のタイル博物館、古代オリエント博物館を含めると、じっくり見るには丸一日はかかりそうな規模を持っている。
   屋外に無造作に置かれている、どう見てもキリスト教関連の遺物。
   建物の前に野ざらしにされているのは、ビザンティン皇帝の石棺。
おそらく旧聖諸使徒聖堂とかアヤソフィアの霊廟の中に安置されていたものだろうが、もはや誰の石棺かもわからず、中身も当然空っぽ。

なぜ建物の中に入れない!(児玉清さん風)
   これもそう。だから、なぜ中に入れない!
   他にこういう石棺も雨ざらし。これは明らかにキリストのモノグラム。
この他に古代ギリシャの彫像とかも外に置きっ放し。
   館内。1階には古代ギリシャ、ヘレニズム時代の彫像多数。まともに観だすとここだけで何時間もかかるだろう。
   ビザンティン時代のコーナー
   トルコ語の他に英語でも解説。
  これが結構いろいろあるんだ。
   戦車競走のスター騎手ポリュフィリオスを顕彰した碑文。
   大宮殿跡から出土したと思しき食器類。
   こういうレリーフは古代ローマの継承者らしい。古代末期のか?
   2階もビザンティン時代の発掘物を、発掘されたイスタンブールの市内の地区ごとに展示している。
   外的侵入時に金角湾の湾口に張られた封鎖用の鎖。
本物…ではなくて復元品だろうな、これは。
  第4次十字軍の際、ヴェネツィアに「四帝共治」の像が強奪されたが、一部だけは残った。それにしても、この石造を強奪してどうする気だったんだ。
   こちらは、競馬場跡の「蛇の柱」の頭の部分。本当は、これが3つあった。
   これが読めると面白いんだろうけど
 トプカプ宮殿(マンガナ地区)
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   オスマン帝国歴代スルタンの居所(後期にはドルマバフチェ宮殿に移っている)。
ビザンティン時代にはマンガナ地区と呼ばれ、宮殿や教会が立ち並んでいた。さらにその前のビュザンティオン時代の市域でもある。
現在は博物館になっており、有名なハレムの他、歴代スルタンの収集した陶磁器、武器、宝石類などのコレクションが公開されている。
   トプカプ宮殿の敷地内に建っている旧ハギア・イリニ聖堂。コンスタンティヌスによる遷都以前からキリスト教の聖堂があったと言われている。イリニは「平和」の意。360年にハギア・ソフィア大聖堂(初代)が完成するまではここが大主教座であった。
532年のニカの乱で焼失したものの、ユスティニアヌスによって再建され、740年の地震で損傷したがコンスタンティノス5世によって修復された。内部の十字架はイコノクラスム時代のもの。
オスマン帝国によるコンスタンティノープル陥落後もモスクに転用されず、トプカプ宮殿の倉庫や帝国博物館(現在のイスタンブール考古学博物館)として使用された。
   側面のアーチ状の構造は、ビザンティン建築ではおなじみ。
これも内部公開してくれればいいのに。
  トプカプ宮殿は中国とか日本、西欧の宮殿建築のように何かの思想に従って建物が配置されてるわけでもなく「正殿」みたいな国家の威信を現す建物がある訳でも無く、様々な建造物の集合体だ。だから建物の印象としては地味。
前日にガラタ塔から見えていた塔はこれ。「正義の塔」と呼ばれている。その下は閣議などが行われていた政庁。
   先述したように、ここはビザンティン時代はマンガナ地区と言う教会や宮殿が立ち並んでいる地域だった。これは、その遺構。何の建物の遺構だったのかは分からない。
   閉館間際に急いでハレムへ
   思ったより中も派手ではない。タイルの使い方が印象的。
   ハレムのスルタンの間。
   トプカプ宮殿は丘の上にあるので、海の眺めが良い。
向こうに見えるのはアジア側の市街地。
   この建物は海風が心地よかった。
   奥に見える橋はボスポラス海峡にかかる橋。
トプカプ宮殿の奥の方は、古代ビュザンティオン時代のアクロポリスの辺りだ。

「神を敬う皇帝レオーン(3世)は、アクロポリスの丘から敵船団を見ると、ただちにギリシャの火を積んだ快速艇を出撃させ、神の助けを得て敵の艦船に放火した・・・」(テオファネス年代記 718年)


レオーン3世が帝国の艦隊を指揮してイスラーム海軍と戦ったのはこの辺りかもしれない。
  内廷のテラスからガラタ地区方向の眺め。
トプカプ宮殿は建物より、庭とかテラスからの眺めと風の心地良さが印象的だった。
 スルタン・アフメット・ジャミィ(ブルーモスク)
 
   スルタン・アフメット・ジャミィは17世紀の初めに、ビザンティン時代に大宮殿があった場所に建てられたモスク。イスタンブールのシンボル的存在。
   元ネタは明らかにアヤソフィアなのだが、アヤソフィアが外部から補強しまくって若干見た目的には雑然しているのに対し、こちらは外観的には洗練されている。
アヤソフィアより1000年あとの建造物だから、当り前と言えば当り前だが。
   「ブルーモスク」と言われる理由はこの美しいタイル装飾。
   アヤソフィアに影響はされてはいるが、時代も1000年以上違うし、建造目的も違う。こちらの方が、より多くの人数を一度に収容できるようになっている感じ。
ちなみに、非ムスリムの異教徒は手前の柵までしか入れない。
   これは何の石柱だ
コンスタンティヌスの円柱
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   スルタンアフメット地区から歩いて行ける範囲に、コンスタンティヌスの円柱がある。現地では「焼かれた柱」チェンベリルタシュと呼ばれている。
  帝都コンスタンティノープルの開祖、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(在位:306-337)の記念柱。
かつてはコンスタンティヌス帝の銅像が乗っていたが、ビザンティン時代の12世紀には、倒壊して失われている。
ここには映っていないが、柱の下は待ち合わせスポットになっているらしく、ケータイやスマホを持った若者が沢山いた。
  ローマ・ビザンティン時代、柱の周りはコンスタンティヌスのフォルム(広場)があり、元老院の建物や列柱廊が立ち並んでいた。

今ではその面影は全くない、ただの駐車場だ。
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