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 大城壁 カーリエ博物館(旧コーラ修道院付属救世主教会) テクフール・サライ 
フェティエ・ジャミィ(旧テオトコス・パンマカリストス修道院付属教会)
コンスタンティノープル総主教座 旧聖ポリュエウクトス教会 
ヴァレンス帝の水道橋
 ゼイレク・ジャミィ(旧パントクラトール修道院付属教会)マルキアヌスの円柱
カレンデルハネ・ジャミィ (旧クリスト・アカタレプトス修道院付属教会) スレイマニエ・ジャミィ
ボドルム・ジャミィ(ミュレライオン修道院付属教会 ゴート人の柱
 現地滞在最終日は、午前中に旧市街北東部のブルケラナエ地区・フェネル地区を、午後にヴァレンス水道橋周辺を中心に回りました。
あまり治安も良くない地区で、しかも結構高低差があって歩き回るのは楽ではありませんが、行った甲斐は十分ありました。
研究者の方以外で旧パンマカリストス修道院やマルキアヌスの円柱まで行ってきた観光客、ましてやビザンティンに興味があって行った人は少ないと思います。

■現地3日目:2012年8月25日(土)
  大城壁
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   トラムT1線でトプカプ駅へ向かい、T4線に乗り換える。電車は大城壁沿いに走る。
  観光地化していない所では、崩れているとこともある。
  コーラ修道院の最寄駅であるトラムのエディルネカプ駅付近、修復したところと、そうでない所がはっきり分かる。
カーリエ博物館(旧コーラ修道院付属救世主教会)
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  入口はひっそりしているカーリエ博物館。
  外観はとりたてて特徴が無い。
  大城壁方向から
聖堂は6-7世紀創建という説もあるが、現在の建物は11-12世紀に建てられたもので、14世紀の宰相テオドロス・メトキテスによって増築がなされ、モザイクとフレスコ画が描かれた。この時の絵画の数々は末期ビザンティン文化の最後の輝きともいえる「パレオロゴス朝ルネサンス」を代表する傑作とされている。
帝都陥落後はモスクに転用されたが、現在は博物館として公開されている。

  「パントクラトール」
(全能者キリスト、日本の正教会風に言うと「全能者ハリストス」)
  「デイシス」。
前日のアヤソフィアの「デイシス」とキリストの表情に共通点がある。

左隅の冠を戴いた人物はアレクシオス1世の三男、セバストクラトールのイサキオス・コムネノス。もともとイサキオスはこのコーラ修道院を自らの墓所にするつもりだった。イサキオスは兄である皇帝ヨハネス2世に不満を持つ勢力に担がれた挙句、謀反人として追われる身となり、晩年近くまで流浪を余儀なくされた。このモザイクは14世紀の作品なので、どこまで彼の姿を正確に表しているのかは不明。
右隅に小さく描かれているはミカエル8世の庶出の娘でイル・ハン朝に嫁いだ「モンゴルの女主人修道女メラネー」こと皇女マリア。
  こういう端までフレスコ画が描かれている。モスクに転用されていた時代はすべて漆喰で埋められていたのだが、アヤソフィアでもここでも基本的にトルコ人が破壊せずに塗りつぶす方法を取ったのはなぜなのか興味深い。単に予算の関係かもしれんが。
   外側拝廊。
   西の扉の上にあるキリストのモザイク
  連作「キリストの生涯」より 「人口調査」
モチーフはアウグストゥス時代に帝国全土で行われた人口調査だが、メトキテスの時代の税の取り立ての様子を描いているとも言われている。偉そうに椅子に座っている役人は、メトキテスをモデルにしているらしい。メトキテスは財務官僚として頭角を現し、パレオロゴス朝第2代皇帝アンドロニコス2世の宰相となった人物である。
  聖堂をキリストに捧げるメトキテス。
 館内は撮影可だがフラッシュ禁止。
シャッターを切るのが早過ぎて、ボケてしまった。
   中央聖堂以外の部分はやや狭い。
欧米人の観光客がどんどん来るので、朝早めに来た方が良い。
   中央聖堂のモザイク「聖母の眠り」
両脇の枠にもかつては何かの画があったのだろうか。
   中央聖堂は殆ど画が残っていない。
   モスクに転用されていたので、内陣にミフラーブが。
   メトキテスによって増築された葬礼用の礼拝堂。
左右の壁面に墓があり、メトキテスの墓もここにある。
   その礼拝堂の奥にあるフレスコ画「復活」
「パレオロゴス朝ルネサンス」を代表する作品の一つ。
キリストが地獄からアダムとイヴを救い出すという、この主題は墓所に描くに相応しい主題なのだろう。
   「復活」のある部分の天井に描かれている「最後の審判」。
人を避けながら撮ったら右が切れてしまった。
   ミカエル・トルニケス夫妻の墓所。
こういった墓はモスクに転用されていた時代は、どう扱われていたのだろう。
   トルニケスの墓所の上にあるドームに描かれた「聖母と大天使」
 テクフル・サライ(コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの宮殿)
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   テクフル・サライは、イスタンブールに現存する数少ないビザンティン時代の世俗建築。
その名前からかつては10世紀の皇帝コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトス(”ポルフュロゲネトス”は皇帝の嫡出子を示す)によって建てられたとされていたが、現在では帝国末期・パレオロゴス朝時代の建造物であると判明しており、この「コンスタンティノス・ポルフュロゲネトス」はパレオロゴス朝初代皇帝ミカエル8世の息子コンスタンティノス・パレオロゴスではないかという説もある。
かつては荒廃していたが、現在は脇に小さな公園が整備され、修復も進められている。
   修復工事の足場が見える。
工事中なので上の写真の反対側は見ることが出来なかった。
   こんなパネルも。
   ここまで修復する気なのだろうか。
看板に落書きがされていることでもわかるように、ここはあまり治安の良い地区では無いので、復元・整備しても観光客が来るかどうかは謎。コーラ修道院と近いので、ルート整備すれば客も来るかもしれんが…全く余談だが、この建物の裏側はフットサル場で、私が行った時も若者たちがボールを追っていた。
 フェティエ・ジャミィ(旧パンマカリストス修道院付属教会)
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  元の名は「いとも祝福された聖母」を意味する。12世紀にコムネノス朝によって創建された。ラテン帝国支配時に荒廃したが、13世紀末に将軍ミカエル・ドゥーカス・グラバス・タルカネイオテスとその妻マリアによって再興された。

帝都陥落後から1586年にオスマン朝に没収されてモスクに転用されるまでは、ここに総主教座が置かれた。ここは現役のモスクであり、一部分のみが博物館として公開されている。

コーラ修道院からちょっと遠いうえ、周囲は完全に一般住宅地なので、なかなか観光客は来ないようだ。入口でチケット売ってるおじさんにどこから来たのか片言の英語で訊かれ、日本だと答えたら驚かれたw
  内部の装飾は殆ど残っていない。
   いちおう解説板も整備されている。
  「パントクラトール」
先ほどのコーラ修道院の物と類似
   内陣に残るキリストのモザイク。
  これもコーラ修道院のものと近似している。
  フレスコ画「キリストの洗礼」
良く見ると、フレスコ画も一部だけ残っている。
  きっと往時はコーラ修道院のように、壁も天井もモザイクやフレスコ画で覆われていたのだろう。
コンスタンティノープル総主教座(聖ゲオルギオス教会) 
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  現在の「世界総主教、コンスタンティノープルと新ローマの大主教」の座所。フェネル地区の金角湾沿いにある。
コンスタンティノープル総主教座は現在でも正教会では第一位の格式を持つが、教会はひっそりとしている。また、19世紀の建造物なので、伝統的なビザンティン建築の様式とは、全く異なった様式で建造されている。
この教会の周囲だけはキリスト教のイコンなどを扱う店舗が並び、ギリシャ語も目にすることが出来る。
  総主教庁の紋章「双頭の鷲」
ビザンティン末期の国章が元になっている。
  聖堂の内部
 旧聖ポリュエウクトス教会(?)
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  フェネル地区からバスでガラタ橋脇のエミニョムへ戻り、トラムでアクサライへ。そこから北へ向かって歩いていくと、右手にイスタンブールの市庁舎、左手にこの遺跡が見えてくる。

結構大きな建物だが、特に解説などはない。
場所から推測すると、聖ポリュエウクトス教会の跡のようだ。
  聖ポリュエウクトス教会は、西ローマ皇帝ヴァレンテニアヌス3世の孫娘ユリアナ=アナキアによって6世紀前半に建てられたバシリカ式の教会だった。
現在、石材の一部はイスタンブール考古学博物館に展示されているほか、ヴェネツィアにもその一部が持ち去られている。
ヴァレンス帝の水道橋
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  コンスタンティヌス帝によって着工され、378年のヴァレンス帝時代に完成したローマ式の水道橋。
かつては郊外の「ベオグラードの森」から送られた水はこの水道橋を通って「地下宮殿」まで送られていた。
オスマン朝時代になっても使用されたが、現在では機能を停止し、元の長さ1キロメートルのうち800メートルが残存している。
下の大通りは「アタテュルク大通り」。
  お馴染みのアングル。
下は大通りなので、普通に車が通り抜けているが、ちょっと運転しづらそう。
  一般の日本人観光客が撮らなそうな部分も。
二段になっているのは、丘と丘の間の谷の部分(そこを大通りが通っている)なので、その前後は高さが低い。
  石積みの色合いとかは大城壁などと通じるものがある。
  水道橋の北にある謎の遺構。
どうやら「ゼイレク貯水池」と書いてあるようなのだが、観光スポット「地下宮殿」に匹敵するような地下貯水池でもあるのだろうか。
  さきほどの看板が立っている、謎の遺構。
オスマン朝時代のものでは無い気がするが・・・。
 ゼイレク・ジャミィ(旧パントクラトール修道院付属教会)
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  1120-36年に皇帝ヨハネス2世コムネノスとその皇后ヘレネ(前日のアヤソフィアに夫妻を描いたモザイク画がある)によって建造された。コーラ修道院、パンマカリストス修道院のモザイク画にもあったギリシャ語の「パントクラトール」は「全能」を意味する。 コムネノス朝、パレオロゴス朝の歴代皇帝や皇族の墓所としても使用された。日本流にいうと「氏寺」とか「菩提寺」に近いだろうか。末期の皇帝マヌエル2世パレオロゴスが修道士として隠棲したのもこの修道院である。

ビザンティン時代は修道院の他に内科・眼科・外科などの病院、精神病院、養老院などの慈善施設を備え、傘下の修道院や地方の所領からの収入で運営されていた。
帝都陥落後は荒廃していたが、15世紀の末に教会部分のみがモスクに変えられ現存している。
現在は復元工事中。

  ここも世界遺産「イスタンブールの歴史地区」に登録されていることもあって、修復工事が進んでいる。完成後は内部も公開されるのだろうか。

裏手で交通整理していた警備の兄ちゃんに片言英語で「チャイナから来たのか」と訊かれたので「いいや、ジャパンだ」と返したら「ジャパン!?」と驚かれた。そんなに日本人来ないのか、ここは。フェティエ・ジャミィと違ってガイドブックにも書いてあるのに。
  工事中で見れる部分は限られているので、手前にあるカフェで一休み。
丘の上にあるので眺めが良い。
  アイスレモンティーとライスプティング。
 マルキアヌスの円柱
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  5世紀中ごろの皇帝マルキアヌスによって建てられたとされる円柱。台座部分に女性が描かれているため、トルコ語では「乙女の石」と呼ばれている。
柱の上に載っていたマルキアヌスの像は失われたが、柱は比較的良い状態で残っており、台座の碑文もはっきり残っている。
  これが、その「乙女」。本来は勝利の女神だったようだ。
 カレンデルハネ・ジャミィ (旧クリスト・アカタレプトス修道院付属教会)
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  クリスト・アカタレプトス修道院付属教会は6世紀に、5世紀初めの公衆浴場の跡地に建てられたのが最初であるが、現在の建物は12世紀のもの。ギリシア十字の上にドームを持つ、中期以降のビザンティン建築らしい構造。
すぐ近くにはヴァレンス水道橋の終端部、さらにその先にはスレイマニエ・ジャミィがある。

テオトコス・キュリオティッサ教会という説あり。書籍によって違うんだが、本当はどっちなんだろう。
 スレイマニエ・ジャミィ
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  近くまで来たからには行っておかないと。
1557年、オスマン帝国最盛期のスルタン・スレイマン1世の命によって建てられた、オスマン建築史上随一のモスク。設計はトルコ史上最高の建築家と呼ばれるミマール・スィナン。
明らかにアヤソフィアを参考にしているが、1000年後の建物である。
金角湾を見渡す丘の上に建ち、ひときわ目立つモスクである。
   スルタン・アフメット・ジャミィより天井が高いような印象。実際はどうか知らないが。
   これはこれで「有り」なんだよなぁ・・・
 ボドルム・ジャミィ(旧ミュレライオン修道院付属教会)
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  アクサライ地区の南にあるポドルム・ジャミィ。
元々は皇帝ロマノス1世レカペノス(在位:920-944)が自邸を女子修道院にしたもの。それまで歴代皇帝は聖諸使徒聖堂を墓所としたが、ロマノスはここを自らの墓所と定めており、10世紀以降のビザンツにおける家門意識の台頭を現しているとも言われている。
構造に特徴があり、写真の聖堂は地面では無く構造物の屋上に建っている形になっている。
   聖堂の下の部分の構造物。現在はロシア人向けの商店街になっている。
   中はこんな感じ。中世に作られた構造物を服や靴の店が埋めている。
ゴート人の柱
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  トプカプ宮殿の北、ギュルハネ公園内に建つ、古代の円柱。古代のビュザンティオン時代、ここは市のアクロポリスであった。

前日トプカプ宮殿から見えてたのに、行ってなかったので、最後の最後にやって来た。
  この柱、台座にローマ皇帝がゴート族を打ち破ったことを記念するラテン語碑文があったことから、「ゴート人の円柱」と呼ばれているが、その皇帝が誰かは分からず、正確な由来は定かではない。
 
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