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コンスタンティノープル元老院

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モンゴルの脅威
名前:偏屈爺    日付:2001/07/11(Wed) 13:09

ニカエア帝国(ラスカリス朝)の時代、1240年代にモンゴル軍が小アジアに侵入し、
セルジュークのスルタン、カイホスロー2世を破って(1243.6)貢納を強制しています。
(John Julius Norwich, BYZANTIUM; The Decline and Fall, 1995, p.199)

このときトレビゾンド帝国(情けなくもセルジュークの封臣)はモンゴルに服従(恐らく
一時的に)させられたのですが、その後モンゴルは小アジアから撤収してしまい、
ビザンツには直接の脅威を与えず、セルジュークを弱体化させたことで逆に帝国の
復興に貢献したとさえいえます。

このあと、確かキプチャク・ハーンがブルガリアに侵入したときはビザンツもかなり
脅威にさらされ、ミカエル=パレオロゴスはモンゴル軍に城(コンスタンティノポリス
ではない)を包囲されて命も危うかったという話を読んだ記憶がありますが(尚樹
啓太郎先生の本だったかな?)手元に文献がないので今は調べられず。

どのみち帝国周辺まで侵攻したのは小規模な分遣隊だったと思われます。大ハーン
やその下のハーンども(たとえばフラグ)が大軍を率いて本気で攻めてきたら、弱体な
ビザンツ軍では首都に籠城する以外に相手のしようがなかったでしょう (^-^;

モンゴル人は征服前にスパイや商人を使って敵地の情報を十分に集めておくのが
習慣だったそうですが、彼らがコンスタンティノポリスのことをどのように見ていたのか、
征服の食欲をそそられなかったのか、そちらにも興味がありますね。もしかすると
ラテン帝国の下で衰退してしまった首都の状況が伝えられていて、征服計画に入らず
(あるいは優先順位が低くなり)、そのお陰で助かった、なんてことがあったのかも。
もちろん私の単なる憶測ですが。。。
157.105.34.63


モンゴル軍
名前:重装歩兵    日付:2001/07/11(Wed) 08:21

そういえば、欧州はリーグニッツでの全滅事件のように
モンゴル軍には旗色が悪かったくせに、「ちびの馬に乗った奴等」と
いうような、負け惜しみともいうべき表現が用いられていたような・・・

アッバース朝を滅ぼしたモンゴル軍、マムルークには撃退されたものの、
黒海付近まで進出してますが、ビザンツはあのモンゴル軍にはどのような
対応をしたのでしょうか(あれも難局だったのでは?)。
どなたかご存知ですか。
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ふむ。
名前:李密    日付:2001/07/10(Tue) 01:07

ちょっと寝て思い出したんですが、
そういえば西欧の騎士が使っていた軍馬というのは
荷馬のような大型馬の血が混じっていると
どこかで読んだような気がします。
もともと騎士の戦い方は正面突撃なので
速力もさることながら、荷馬レベルの運搬力が要求される、
ということらしいのです。

実際、中央アジアの俊敏で頑健な馬、というのは
結構小型種が多いのも確かなんですよね。
モンゴルの馬たちはタフで速力も速いですが、
(馬のくせに木から直接葉っぱを食べることすらするそうな……。)
実は体高150cmに満たない小型馬だったりします。

そういう意味では西欧の軍馬の
「体がデカい」というのはアラブ種ではなく、
西欧の荷馬の特徴なのかもしれません。
で、「速力」や「持久力」をアラブの小型種から
導入したと言うか……。

前に本屋で「馬の文化史(歴史だったかな?)」とかいう
本があったのでちょっと読んでみる事にします。
気になってきました(爆)
p3229-ip02kyoto.kyoto.ocn.ne.jp


馬たち
名前:重装歩兵    日付:2001/07/09(Mon) 13:00

こんにちは。

そうですか、李密さん。ヴァヤリーグの馬は小型でしたか。
ですが、私のイメージですと、私はよくわからない競馬の話ですが、
サラブレッドは大型で、アラブは小型、だったような・・・
それで迫力に欠けるアラブは人気が低迷、だいぶ以前に日本では
廃止されてしまったとか。
だから、「アラブの馬は小さいんだ」って思ってたのですけど。

ただ、私が見た「13ウォーリアーズ」は、あくまでも映画。
信頼性は欠けるかもしれませんな。
でもあれだと、思いっきり「アラブ馬は小型」って断定されてます(-_-;)
socks-server.samsung.co.jp


アラブの馬、ルーシの馬、馬馬馬……
名前:李密    日付:2001/07/09(Mon) 02:04

題名は関係ないです。
馬肉が食べたくなってきました(謎)

さてさて、実は重装歩兵さんのカキコを見て驚いてしまいました。
と、いうのも私の認識とかなり逆だったからです(汗)
ルーシ人とはヴァイキングの一派が南下し、
キエフやノヴゴロドなどに土着した人々ですが、
彼らの故郷であるスカンディナビアの騎馬兵の使う馬というのは
ポニー種の親戚のような小型馬であったようだからです。

無論、黒海周辺は騎馬民族発祥の地とされることもある地域ですし、
スキタイに始まる騎馬民族の影響が強い地域ですから
より大型の馬種が入手されたとしても不思議ではないのですが。

一方アラブ種の馬というのは後の西欧の騎士社会の使っていた
「名馬」の祖となったものだそうです。
ノルマンディー公ウィリアムの馬はアンダルシア種であった、
といわれますが、そもそもアンダルシア種というのは
侵攻してきたイスラムからの馬匹を使って
品種改良が進んだ種のことだからです。
騎馬民族などいなかったはずのイベリアに名馬の産地があるのは
そうした理由によるものでしょう。

サラディンがリチャードに送った馬の話も
私としては納得できます。
アラブ種の馬というのは大型馬である、という認識があるものですから。
p0992-ip01kyoto.kyoto.ocn.ne.jp


あ、この場合は
名前:李密    日付:2001/07/09(Mon) 01:33

>奥野さん

えっと、精神面が騎士道(西欧の模倣として)だったとしても
それは不思議な事ではないと思います。
現に西欧には騎士道、アラブにはフルースィーヤ、
日本には武士道、「王書」などを読む限りでは
ペルシャなどにもそういう精神的規範が存在しそうですから。
中国の士大夫層の「儒教道徳」もこれに含めるべきでしょうか。
彼らの場合は主に文官の間で規範となっていたものですが……。

ただ、そのメンタル面が西欧の騎士道であっても、
その「騎士」としての姿までが自然と西欧風になる、
というのはやはり考えにくいものであると思うのですね。
「同じ封建制であるからといって」という部分を、
「同じ騎士道であるからといって」という風に変えていただければ
わかりやすいかと思います。

メンタルから発露する部分があったとしても
それが原因で西欧式軍隊になるわけではなく、
やはり軍隊の姿が変わったのは
情勢が必要とした、つまりビザンツの国家的意思によるものというよりも、
マヌエル帝の個人的意思によるところが大きいのではないでしょうか。
p0992-ip01kyoto.kyoto.ocn.ne.jp


ビザンツ軍
名前:奥野    日付:2001/07/08(Sun) 17:28

>李密様

確かに、同じ「封建制」であるからといって軍制がまったく同一化されるということはないでしょう。
ただ、コムネノス朝当時のビザンツ帝国が「皇帝専制」ではなく、貴族の成長を受けて新しい統治形式に
移行していたことは周知の事実です。で、マヌエル帝としては、貴族を皇帝への忠誠の枠内にとどめる
方策として西欧の騎士に注目し、「騎士道」という新しい道徳を導入しようとしたのでは?と思ったわけで。
まあ、深読みでしょうけどね。西欧式の騎士軍を編成したからといって、その精神的な基盤である騎士道まで
同時に取り入7れられるとは限らないですし。

>偏屈爺様

確かに、ローマ時代と比べて人物描写の落差は大きいですね。別に技術が衰えたわけではなく、
偏屈爺さんのおっしゃる通り、精神的な面での差だと思うのですが、もったいない話ではあります。
しかし過去の軍隊の様子を復元しようとする場合、現代まで残された武器や甲冑をもとにするという
手段もあるのですが、ビザンツ時代のものはよく保存されているのでしょうか?あまり写真では
見たことがないような…

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/6218/
ppp137-54.dialup.mtu-net.ru


到着
名前:お魚さん    日付:2001/07/08(Sun) 08:08

アマゾン・ジャパンから『アレクシオス一世伝』が到着しました。
これで自さいとの更新ができそうです?

お馬さんについては、ビザンツの支配地域で産出されてたのがどちらか、と
いうことによるのではないかと。現在のように馬の品種改良が行われていた
としたら、時代によって変わってきているとは思うんですけどね。

海外サイトでそういうとこに触れてるとこはないのかな? 最近の研究の
動向とかは、専門雑誌見てないので分からないです(^^;
dhcp5082.ccnet.ne.jp


13(サーティーン)ウォーリアーズを観て
名前:重装歩兵    日付:2001/07/06(Fri) 09:05

先日レンタルビデオで借りてきた13ウォーリアーズという映画にて。
ストーリーは、東欧地域を旅するアラブ人が、偶然立ち寄ることとなった
ルーシ(と思われる)の村で、救援部隊の戦士として選ばれてしまった話。
その中で、他のルーシの戦士たちは小型であるアラブの馬を見て
「アラブは犬に乗って戦をするのか」と嘲笑っていた。確かにサラブレッド
とアラブの大きさは違う。
さて、本題。イスラムと闘争を繰り広げたビザンツでは、馬はどうなって
いたんでしょうね。やはり重装備に耐え得る大型の馬が使用されていたので
しょうか。
それにしても目から鱗。イスラムと欧州は戦争続きでしたが、馬の大きさの
違いには一度も着目したことがありませんでした。
皆さんはどう思います?

(あれ?では、第3回十字軍で、サラディンがリチャードに送ったのが
サラブレッドの始まり、というのと矛盾する・・・)
socks-server.samsung.co.jp


遅レス。
名前:李密    日付:2001/07/05(Thu) 14:34

○奥野さん

>マヌエル帝が西欧タイプの騎士を創設しようとしたのは、西欧と同じような封建領主層の成長を受けての政策であった…ということはないのでしょうか?

それは関係ないと思います。
と、いうのも封建制という制度はパルティア王国や日本、
秦漢帝国以前の古代中国にもありましたけれど、
封建的身分戦士たちはそれぞれの文化圏に特有の装備や戦闘法で戦っていました。
ちょっと変わった所では、イスラムのマムルークにおける
「フルースィーヤ(アラブ世界の騎士道のようなもの)」なんてのも
ありますけど、メンタル面は西欧の騎士道ですけど、
どう戦うかという技術面は全くの別物なんですよね。
十字軍で「西欧の重騎士とアラブの軽騎兵」というのが
対比されるんですけど、まさに文化の差だと思います。

もし西欧と全く同じ封建制がビザンツに生まれたにせよ、
それが原因となって西欧と全く同じ軍隊が生まれる、
ということはないと思います。
もっとも、制度もまた文化に縛られるので、
西欧と全く同じ封建制ではないでしょうが……。
p3201-ip02kyoto.kyoto.ocn.ne.jp


ちょっと脱線。
名前:李密    日付:2001/07/05(Thu) 14:14

ギリシア火についてなんですけど、
「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(岩波文庫)」の中の
軍事技術についての彼の覚え書きの中に
製法がメモしてあるんですよね。
彼の書いているのは火炎瓶タイプのものですけれど。

ビザンティンの軍隊のビジュアル再現についてならば、
「OSPREY MEN-AT-ARMS」というシリーズに
ずばりビザンティンの軍隊についてのものがありますよ。
もっとも未訳ですけど……。
シリーズそのものは和訳が進んでいるので、
そのうち訳されるでしょうが。
p3201-ip02kyoto.kyoto.ocn.ne.jp


写実精神の衰退か?
名前:偏屈爺    日付:2001/07/02(Mon) 15:17

やっぱり前身たる古代ローマに比べて写実精神が衰退したことは否定できないのでは (^_^::

これはコンスタンティヌス帝の頃からだと思いますが、彫像や貨幣の肖像がだんだん下手に
なっていく、と言うか様式化されていく。別の言い方をすれば写実よりも象徴的な表現に重点
が置かれるようになる。たとえばローマ軍の様子ならトラヤヌス記念柱の浮彫を見るだけで
相当細部まで再現できますが、そういうタイプの芸術には関心が無くなっていったのでしょう。

もちろん、だからと言ってビザンティン芸術を貶めるつもりでないのは言うまでもありません (^_^;;

157.105.34.61


もうひとつおまけですが
名前:お魚さん    日付:2001/07/02(Mon) 00:49

>そういえばビザンティンの軍隊をビジュアルで再現したのって見
>た事無いですね。いつも出てくるのは「スキュリツェス年代記」の
>挿絵くらい。
おそらくは、挿絵がついてる年代記で唯一残っているのがこれなので
しょうね。後のものについては、年代記にしろ詩にせよ、挿絵つきの
ものが残っていないのではないでしょうか。
「スキュリツェス年代記」に挿絵がついていたのは、おそらく当時と
してもそれほど珍しいものではなかったと思いますので、本当にこれ
は残念なことですよね。教会画や貨幣、織物などからしかビザンツの
ことが分からないというのは。うーん。

「いやいや、そんなことはないですよ」という方、もしいらっしゃた
ら教えてくださると助かります。ほんとに。
ccnet21129.ccnet.ne.jp


ギリシアの火
名前:お魚さん    日付:2001/07/01(Sun) 08:44

インターネット上でちょい探してみてますが、なかなか
いい文献がないですね>ギリシアの火
これについてはもう少し見てみます。

最近アマゾン・ジャパンでようやく『アレクシオス一世伝』を購入。
これでようやく自ぺーじの更新ができそうです。
いや、今まではクレジットカードを持ってなかったもので(汗
ccnet21129.ccnet.ne.jp


へこまされた管理者
名前:コンスタンティノープルからの使者     日付:2001/06/30(Sat) 13:45

重装歩兵殿

〉それにしても偶然か、このホームページの総帥・使者殿が
 場したとたんにやり取りが止まった様に見えるので

いや偶然じゃないかもしれませんよねぇ。管理者が1番立場が無い
ホームページっていうのはどういうことなんだろ?ちょいと近い内に
掲示板に付いては運営を考え直したいと思います。

〉ロードス島攻防記」ではヨハネ騎士団が
〉オスマン軍に対して火炎放射器を使用。
〉そして「コンスタンティノープルの陥落」
〉ではギリシア国籍の船が「爆弾」のような
〉ものに改良して使用しているのです。

〉「水でも燃える火」はこの地方特有の武器だったのでしょうかねぇ。

ちょうど第4次十字軍で帝国がいったん崩壊した時に、「ギリシャの
火」の技術が流出したのかもしれませんね。
kwge011n035.ppp.infoweb.ne.jp





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