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コンスタンティノープル元老院

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「ギリシアの火」その後
名前:重装歩兵    日付:2001/06/29(Fri) 08:29

こんにちは。

それにしても偶然か、このホームページの総帥・使者殿が
登場したとたんにやり取りが止まった様に見えるので、ここは体裁を
重視するそれがしが投稿致しまする。

私の愛読書の塩野七生さんの作品を見ていると、時々火炎放射器が
出てきます。なんと、「ロードス島攻防記」ではヨハネ騎士団が
オスマン軍に対して火炎放射器を使用。
そして「コンスタンティノープルの陥落」ではギリシア国籍の船が
「爆弾」のようなものに改良して使用しているのです。

「水でも燃える火」はこの地方特有の武器だったのでしょうかねぇ。
socks-server.samsung.co.jp


やっぱり謎だらけ
名前:コンスタンティノープルからの使者    日付:2001/06/23(Sat) 23:49

皆様こんばんは。
しばらく来ない間にずいぶん盛り上ってたみたいですね
(どんな管理者だよ)。中にはお初の方もいらっしゃる
ようで、以後よろしくお願いします。偏屈爺様移転の件
了解です。これから変更します。

 軍備の話ですか。私はあまり軍事関係には詳しくない
ので各々にコメントするのは差し控えますが、そういえ
ばビザンティンの軍隊をビジュアルで再現したのって見
た事無いですね。いつも出てくるのは「スキュリツェス
年代記」の挿絵くらい。軍隊に限らず、一般市民に至る
までなぜ古代ギリシャ・ローマみたいな想像画って無い
んだろう?欧米のサイトを見てもそれらしいものは、殆
どみたことない(建物は再現してるけど)。もしかして
余程分からないことだらけなんでしょうか。

では。
kwge017n060.ppp.infoweb.ne.jp


確かに石油だったら話は簡単そうですが…
名前:奥野    日付:2001/06/23(Sat) 05:48

「ギリシアの火」についてですが、ロシアの年代記にも記述があります。それは941年、キエフ大公イーゴリの
コンスタンティノープル攻撃についての記事です。ちょっと引用してみます。

「テオファノスは火を備えた船に乗って彼ら(ルーシの軍勢)を迎え、筒で火をルーシの船に放ち始め、恐ろしい奇蹟が
見られた。ルーシは炎を見て、逃げようとして海水の中に飛び込んだ」(名古屋大学出版会『ロシア原初年代記』
48ページ、ただし固有名詞の表記は一部変えてあります)

…これを見ると、やはりこの兵器の心理的な効果は大きかったようですね。とにかく、海上の戦いで「火」というのはもっとも
恐るべき武器でしょうから。初めてこれを見た者が「奇蹟」と感じるのも、無理はないような気がします。

ところで、以前何かの本で、アラブ人が十字軍相手に使っていた同種の火炎放射兵器を、「石油を利用したもの」と説明
してあったのを読んだ記憶があります。確かにあの地方では昔から石油が知られていても不思議はないような気がしますが…
これが「ギリシアの火」とは別物なのか、あるいは著者が適当な想像で書いたのか、ちょっとよく分かりません。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/6218/
ppp129-46.dialup.mtu-net.ru


ギリシア火の実験とか
名前:偏屈爺    日付:2001/06/22(Fri) 07:34

行われた例はないのでしょうかね? 古代ローマのカタパルトなら、何度か復元実験が
行われて、実際に飛び道具としてかなりの性能があることが確かめられていますが。。

揮発油に生石灰を混ぜて、水と接触すると石灰の反応熱で点火するようになっていた
ならば、船から放射する段階で点火(=火炎放射)しなくてもよいので、比較的安全で
あるし、射程距離はどこまで揮発油をポンプで飛ばせるかで決まるように思います。

問題は硝石が成分として入っていたかどうか、ではないでしょうか。硝石入りなら本物
の液状爆薬で、威力も桁違いになる。ただ、一般には硝石入りの黒色火薬は10世紀
以降に中国で発明されたということになっているので、7〜8世紀のムスリムとの戦い
で使用されたギリシア火に硝石が使われたかどうかはちょっと(かなり?)ぁゃιぃ。

157.105.34.61


ギリシャ火薬
名前:伊豆2号    日付:2001/06/19(Tue) 03:24

 みなさん、お久しぶりです。初めての人は初めまして。
 伊豆2号です。

 ギリシャ火薬については、私も興味持ってます。
 最初、シリア出身のカリニコスなる人物が発明し、コンスタンティノープ
ルを包囲するイスラム軍に使用。
 その成分は、現代でも不明、というか製法を記した文献でも出ない限り調
べようがないですが、水と反応して燃えたというのは成分に生石灰が含まれ
ていたためと考えられます。

 私の勝手な想像ですが、当時の火炎放射にそれほどの射程距離があったと
は思えません。近くまでしか来た船しか焼けないのでは、自分にも延焼する
危険があります。だから、奥野さんのおっしゃる騎兵と同様に、心理的効果
が大きかった兵器なのではないかと私は考えています。

 その後も、ギリシャ火薬は次々と帝国を襲ってくるさまざまな民族に対し
て、けっこう使われたみたいですね。
 「秘密兵器」という言葉がこれほど似合う兵器も、歴史上珍しいかもしれ
ない。まさに、秘密の兵器です。

 ただ、気になるのは、そのうち十字軍に対するイスラム軍も似た武器を使
うようになったらしいこと。うろおぼえなのですが、十字軍側がそれを「ギ
リシャの火」と呼んでいるのを、何かの本で読んだように思います。
 たぶんイスラム側が、マネをして同種の兵器を開発したのだと思いますが、
なにしろビザンティン帝国のこと、「ひょっとして、なんらかの政治交渉の
見返りに製法をリークしたのでは……」なんて想像もしてしまいます。まあ
よく考えたら、ありえないと思いますけどね。その製法は国家の最高機密で
したから。

 私より詳しい方、いらっしゃいましたら、ご教示ねがいます。
h075.p490.iij4u.or.jp


火炎放射器
名前:重装歩兵    日付:2001/06/18(Mon) 13:02

こんにちは。
ビザンツ陸軍と同じように、ビザンツ海軍についても不可解な部分が
あります。
それは、ご存知「ギリシアの火」(水をかけると爆発するとか)。
この旧式火炎放射器、突然8世紀のウマイヤ朝との死闘で紹介されますが、
その後、あまり見かけないですね。
10年前は「いまだよくわかっていない」というコメントの本ばかりでしたが
現在でもこれに関しては未開の分野でしょうか。

諸将の方々、どうですかな。
socks-server.samsung.co.jp


馬上で大きな槍をふるう皇帝
名前:お魚さん    日付:2001/06/16(Sat) 01:55

といえばコンスタンティノス八世です。ロマノス一世もですけど(^^;

>近代のように火器が発達していない場合、歩兵は騎兵の突撃によって恐ろし
>い心理的プレッシャーを受けるもので、重騎兵が突っ込んで来るのを見るだ
>けで動揺して散り散りになってしまう例も多いと聞きました。
私も騎兵の突撃というのは、敵軍の隊列を崩すため、というのを聞いたこと
があります。
またもやで恐縮ですが、プセルロス先生によるとくだんのバシレイオス二世
は、隊列がむやみに乱れることを望まず、軍規に従わなかった者はたとえ功
績をあげたとしても厳しく処断したとあります。

農村共同体における馬の役割はどんなものだったのでしょうね。たしか牛は
農耕のための家畜という存在だったと思いますが(『生き残った帝国〜』の
フィラレトスの話より)、馬もまた同じように農耕用に飼われ、そして戦時
には軍馬として徴用されたのでしょうかね。
ccnet21129.ccnet.ne.jp


心理兵器としての騎兵
名前:奥野    日付:2001/06/15(Fri) 05:36

こんにちは、大変ご無沙汰しておりました。現在はモスクワに滞在中の奥野です。
しばらくはロシアにいる予定です。

ビザンツ騎兵の話がでていましたので、性懲りもなくまたロシア関連の話題を振ってみます。
お魚さんの書き込みにもありましたが、キエフのスヴャトスラフ対ヨアンネス・ツィミスケス戦では、
帝国の騎兵隊によってキエフ軍が混乱に陥り、敗北したとされています(ディアコノスの記述だったと思う)。
近代のように火器が発達していない場合、歩兵は騎兵の突撃によって恐ろしい心理的プレッシャーを受ける
もので、重騎兵が突っ込んで来るのを見るだけで動揺して散り散りになってしまう例も多いと聞きました。
10世紀末の段階ではルーシ(ロシア)には騎兵が少なく、歩兵中心だったようです。文明があまりまだ
発達していなかった当時のルーシ兵にとって、きらびやかな甲冑に身を固めた帝国の騎兵は非常に迫力のある、
恐怖の対象と感じられたのではないでしょうか。

もっとも、我々は国家による常備軍が当たり前になった世の中に生きているためか、かつての軍隊を考える
ときにもついつい武装や兵種の優劣だけを比較しがちです。しかし中世の軍隊は社会のあり方と強く結びついて
いるので、その辺りも考慮に入れる必要があるでしょう。西欧で重装騎兵が発達したのも、それだけの装備を自弁で
用意できる領主階級が発達した、という背景があってのことですし。
マヌエル帝が西欧タイプの騎士を創設しようとしたのは、西欧と同じような封建領主層の成長を受けての政策であった…
ということはないのでしょうか?この場合は単なる軍事上の方策だったのかもしれませんが。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/6218/
ppp136-22.dialup.mtu-net.ru


アレクシオス一世伝
名前:お魚さん    日付:2001/06/14(Thu) 22:42

緋竜さん
えーと、英訳版がペンギン・ブックスから発売されていますよん。Alexiad,trans.,E.R.A.Sewter,New York:Penguin,1969.
というような感じで、日本のアマゾン・コム(ジャパンでしたっけ?)で
入手するとお安いです。
ちなみに「さわり」だけでしたら、拙ぺーじを見ていただければ幸いです。

偏屈爺さん
>両翼に騎兵隊(およびそれに援護される軽装の補助軍)、中央に(重装)歩兵という基本
>配置はある意味では理の当然なのかもしれませんが、ハンニバル戦争の頃と同じですね。
馬のように維持費がかかるもののみで構成するのは難しかった、ということ
なのでしょうね。西欧の軍隊も、騎馬だけでは構成は不可能だったか、
もしくは小規模な軍隊だったのではないでしょうか。

ニケフォロス・フォカス帝の入城の絵にあぶみがついていたということは、
少なくともその絵が描かれていた時代にはあぶみがあったんですね。ふむふむ。
ccnet21129.ccnet.ne.jp


はじめまして
名前:緋竜    日付:2001/06/14(Thu) 14:18

こちらには初めて書き込みをさせて頂きます、緋竜です。
今回は資料の件でちょっと質問があったのですが…。

第一回十字軍時の皇帝アレクシウス一世についてなのですが、
彼の統治時代を詳しく記したといわれている、アンナ・コムネリスの
「アレクシアード」を調べたい場合、どの資料を探せば良いのでしょうか?
日本語版がなければ、英語版でもいいので、全文読める資料が欲しいので
すが……。

話の腰を折ってしまってすみません。よろしくお願いします。

192.168.50.2


またまた騎兵隊
名前:偏屈爺    日付:2001/06/13(Wed) 20:44

李密様、お魚様、いろいろ御教示ありがとうございます。ページを拝見して、朧ろ気ながら
騎兵隊の戦いの様子が想像できるようになったかなぁという感じです。
両翼に騎兵隊(およびそれに援護される軽装の補助軍)、中央に(重装)歩兵という基本
配置はある意味では理の当然なのかもしれませんが、ハンニバル戦争の頃と同じですね。

『黄金のビザンティン帝国』の中にもいくつか騎兵隊の絵がありますが、小さくて見にくい。
ただニケフォロス=フォカス帝が凱旋式で入城する絵では、足の先にアブミが確認できます。

異民族傭兵への依存は、やはりテオドシウスがゴート族を同盟者として自軍に組み入れた
あたりから急速に進んだのでしょうか。。。
157.105.34.61


夏の暑さも冬の寒さも耐えながら
名前:お魚さん    日付:2001/06/12(Tue) 23:04

というバシレイオス帝の頃には騎兵はいたようですね。
井上先生の『生き残った帝国ビザンティン』のヨハネス二世がキエフの
スヴァヤトスラフ率いるロシア軍を追撃する絵がありますが、そこに描
かれるビザンツ軍は、馬に乗った騎兵軍のようです。

ところで気になるのは鐙と鞍の存在。
馬に安定して乗るためには必要不可欠の両者ですが(あと手綱かや?)、
これらはいつ頃ビザンツ軍に導入されたのでしょうね。
当時の騎兵を描いた絵に描き込まれているかが気になるとこです。

「ヘタイロイ」はビザンツ中期には「親衛隊」という意味になっており、
「ヘタイレイア」は重要な官職だったようです。ばいカジュダン先生。

ちなみにバシレイオス帝については、拙ぺーじなど見ていただけると、
プセルロス先生のかたよった見方からうかがうことができます(^^;
ccnet21129.ccnet.ne.jp


騎兵隊突撃せよ
名前:偏屈爺    日付:2001/06/12(Tue) 16:29

W.H.マクニールの 『ヴェネツィア』という本によると、騎士が鐙(あぶみ)でしっかりと
体を鞍上に固定し、重い槍を持って突撃する型の西欧の重騎兵はカロリング朝時代に
発明されたとあり。ペルシアやトルコの騎兵はもっと軽武装で機動力や飛び道具頼り、
ビザンティンの騎兵もどちらかといえば後者に近かったんでしょうかね。

私などは世界史で習った軽武装で集団戦法をとり騎射を主要な武器にするモンゴルの
軽騎兵が世界を席巻したというイメージがあって、重騎兵なんてどれだけ役に立つのか
という気がするのですが、実際のところは騎兵にも多くの種類があって、その組み合わ
せいかんで結果もいろいろと分かれたというところでしょうか。
157.105.34.61


騎兵中心の中世か
名前:重装歩兵    日付:2001/06/12(Tue) 12:55

李密さん、ご丁寧な回答、有難うございました。ユスティニアヌス帝の
部隊のページ、早速参考にさせて頂きました。やはり地中海の多くの領土を
回復しただけあって、なかなかの兵力ですね。
しかしながら、やはり時代の流れのためか、「盾で歩兵がザッザッザ」という
のは無くなっていったようですね。歩兵が復活するのはハルバードが発明
されるまで待たねばならぬようですな(もっとも、その頃には、既に
ビザンツ帝国は・・・)。
そういえば、ロマヌス・ディオゲネスが捕まってしまったマンジケルトの戦い
の絵も、追うセルジューク軍も追われるビザンツ軍も、騎兵が描かれていますね。
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ある程度は
名前:李密    日付:2001/06/11(Mon) 23:06

>偏屈爺さま

ビザンツ騎兵をそのまま調べることはやや困難ですが、
時代の流れや戦っていた国々からある程度類推することは可能です。

まず、東ローマ時代の「ローマ人」騎兵や
テマ制度下での騎兵はパルティア・ササン朝ペルシャの
騎兵と似通っていると推定できます。
まず「カタフラクト」という名前からしてパルティアの
重騎兵のことですし、ローマやその同盟国には
重装甲で組織的な重騎兵は存在していませんでした。
(マケドニアのヘタイロイが少々気にかかりますが。)
よって、東ローマ・ビザンツの騎兵はアジア型の重騎兵であった、
といえると思います。

テマ制が制定されてからも、
オストロゴルスキー先生の「ビザンツ帝国史」には
「ヘラクレイオス帝は特に軽装備の騎兵射手に重きを置いていたようである」
とあります。
つまり、軍制は変わったものの、騎兵のタイプ自体は
アジア遊牧民型の騎兵のままで、
タイプ自体はおそらくペルシャタイプ(その亜流)
の騎兵だったのだと思われます。

またまた「ビザンツ帝国史」ですが、
ニケフォロス=フォカス帝の地価改正(でいいのかな?)の項目において、
この改正は「新たな重装備の費用が高騰したことに鑑み……」と
ありますが、ここで一般の自由農民のテマ兵士とは一線を画す、
「富裕層の兵士」の存在がクローズアップされています。
これはおそらくは西欧における騎士・貴族のような存在であり、
多数の軽騎兵ではなく、少数の重騎兵の存在があるのでしょう。
もっとも、おそらく軽騎兵も多数いたとは思います。
騎馬民族も重騎兵と軽騎兵を併用しますし、
おそらく重騎兵の重装備化を推し進めたのだと思います。

ただ、マヌエル1世が「西欧式の槍騎兵の育成に努めた」のですから、
まだこの頃の重騎兵はやはりあくまでアジア型での重騎兵なのでしょう。
ペルシャやイスラム圏の騎兵には重騎兵も存在します。
彼らは重装甲ながらも遊牧民らしく弓も使うような重騎兵であって、
西欧の騎兵に比べて白兵戦では劣っていたようです。
マヌエル1世の逸話の中に
「ラテン人の騎兵に襲撃させたら、
ギリシャ人騎兵はすぐに逃げてしまった。」
というのがありましたが、これと同じようなことなのでしょう。
十字軍遠征では、十字軍の騎兵がイスラムの騎兵を追い回す光景は
珍しいものではなかったようですから。
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