あなたが選ぶベスト・オブ・ビザンティン皇帝
主なノミネート者一覧


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コンスタンティヌス1世(大帝) 在位:324-337
 コンスタンティノープルへの遷都、キリスト教の公認、専制君主制の強化を実施し、古代ローマ帝国から中世ビザンティン帝国への変化を導いた皇帝。

レオ1世 在位:457-474
 ゲルマン人アスパルをイサウリア人を使って巧みに退け、東ローマ帝国のゲルマンによる干渉を防いだ皇帝。

ゼノン(タラシコディッサ)在位:474-475,476-491
 大した能力はないのに、末期ローマ帝国の動乱の中を泳ぎきり、なんと皇帝のまま天寿を全うすることができたイサウリア人。彼の時代西ローマは消滅。
アナスタシウス1世 在位:491-518
 ゼノンの治世で破綻した財政の再建を果たし、ユスティニアヌス時代の大拡張を準備した皇帝。

ユスティニアヌス1世(大帝) 在位:527-565
 皇后テオドラに支えられて首都市民の反乱を切りぬけ、聖ソフィア大聖堂などの大規模な建築事業と、旧西ローマ領の回復、現代でも民法典の基礎となっている法律集「ローマ法大全」編纂などで、古代ローマ最後の栄華を現出した皇帝。教科書に出てくる唯一のビザンティン皇帝でもある。
マウリキウス 在位:582-602
 ユスティニアヌス後の帝国の急速な衰退の中、ラヴェンナ・カルタゴ総督府設置などの改革やペルシャ国境の安定化などの努力を重ねる。しかし国費削減のための軍隊への現金支給の廃止やスラヴ・アヴァールに対するドナウ渡河作戦を恨んだ軍隊によって処刑される。

ヘラクレイオス 在位:610-641
 侵攻して来たペルシャ軍に対し、愛する者とローマ帝国のため、果敢に戦い勝利を収めたものの、イスラムに敗れてすべてを失った悲劇の英雄。
 彼の栄光と挫折の生涯に、人はこの世に生きる者の儚さを知るであろう。
彼の詳細な伝記はこちら。

コンスタンス2世”ポゴナトス” 在位:641-668
 ヘラクレイオスの孫。イスラムとの海戦での死闘、シラクサ(シチリア)への遷都など地中海世界帝国ローマの維持に奮闘したが、むなしくも暗殺された「髭の皇帝」。

コンスタンティノス4世 在位:668-685
 コンスタンス2世の子。イスラムの首都包囲を撃退し、帝国の存続への苦闘を重ねた青年皇帝。

ユスティニアノス2世”リノトメトス” 在位:685-695,705-711
 コンスタンティノス4世の息子にしてヘラクレイオス王朝最後の皇帝。積極的なれど成果は裏目になるばかり、財政・外交政策の失敗から鼻を削がれて追放された。
 10年の流浪の末に復位するが、復位後には追放した者への復讐ばかり。それによって反乱が起きて殺害された。本来はそんなことをやってるような国際情勢ではなかったのだが。

レオーン3世 在位:717-741
 イサウリア(シリア)王朝の開祖。ウマイヤ朝の大遠征軍を退けてヨーロッパをイスラムから防衛した、ビザンティンの「獅子心王」。テマの再編や法典整備など行政でも能力を発揮したが、聖像破壊運動を始めたために後世異端者扱いされてしまった皇帝。モーゼの「十戒」に従っただけなのに。

コンスタンティノス5世”コプロニュモス” 在位:741-775
 レオーン3世の子。父に似て軍事・行政に優れ、ブルガリア遠征など、東南欧・小アジアの地域大国としての中世ビザンティン帝国確立を方向付けた有能な君主。
 なれど、父以上に聖像破壊を徹底し、聖像崇拝派を弾圧したために後世「糞(コプロニュモス)」と呼ばれた。

エイレーネー(イリニ) 在位:797-802
 コンスタンティノス5世の息子レオーン4世の皇后にして、ローマ帝国初の女帝。息子のコンスタンティノス6世が幼少のため摂政として君臨、聖像崇拝を復活させた。やがて長じたコンスタンティノスと対立するようになると、なんと実の息子であるコンスタンティノスの目をえぐって追放し、帝位を簒奪。コンスタンティノス6世の廃位でローマ皇帝が絶えたと解釈したローマ教皇は、フランク王カールを「ローマ皇帝」に戴冠した。
即位後は人気取り政策のためにむやみに減税したため財政を破壊、クーデターで追放されたが、聖像復活によって聖人に列せられている。

ニケフォロス1世 在位:802-811
 エイレーネーの後を受けて即位した財務長官。エイレーネーが行った人気取りの減税政策をやめて破綻した財政を再建。従って人気は低く、後世ビザンティン人の評価は高くないが現代ではその評価は改まりつつある。811年にブルガリアへ遠征し、首都プリスカを焼き払うが帰途をブルガリア軍に襲われて戦死。その頭蓋骨はブルガリア王クルムの酒盃にされたという。

テオフィロス 在位:829-842
 アモリア朝の2代目。学問の奨励、首都市内を巡回して貧しい者から不平を聞く、悪いものは階級・役職に関係なく公平に罰するなど名君だと思わせる逸話が有る一方、イスラムと戦って大敗、なぜか聖像破壊を再開させて聖職者を弾圧するなど、無能な暴君ぶりも見せており、評価が定まらない皇帝。

ミカエル3世”メスィソス” 在位:840-867
 テオフィロスの子。6歳で即位したため、長じるまでは母テオドラが摂政を努めた。16歳になってから叔父バルダスと結んで母を国政から追放し、のちにバルダスが力を持つとマケドニア出身のバシレイオスを使ってバルダスを殺害したが、その翌年バシレイオスを除こうとして失敗し、暗殺された。このためバシレイオスによって創始されたマケドニア王朝時代の歴史家によって無能な「飲んだくれ(メスィソス)」とされているが、バルダスや総主教フォティオスなどの有能な臣下に助けられて、実際にはアラブ軍の撃退、スラヴ人へのキリスト教の伝導、古代文化の復興など、重要な成果を生んでいる。

バシレイオス1世 在位:867-886
 マケドニア王朝の開祖。マケドニア・テマのアルメニア人農民の子から軍人、馬丁長として仕え、その剛勇さからミカエル3世に気に入られ皇帝警護役、さらには共同皇帝にまで出世、867年には自分を除こうとした主君ミカエル3世を殺害させて正皇帝に即位、という下克上人生を歩んだ男。即位後は南イタリアへの影響力回復やブルガリア教会のコンスタンティノープル教会傘下入り、法典の再整備への着手などを行った。

レオーン6世”フィロソフォス” 在位:886-912
 神学や哲学に優れ、予言書などを残したため哲学者や賢者を意味する「フィロソフォス」というあだ名で呼ばれている。ミカエル3世の元愛人とバシレイオス1世の間に生まれたために父からその出生を疑われ、投獄されたことも。
 父の着手した法典整備を完成させ「バシリカ法典」という「ローマ法大全」の改訂版を発布。また官僚制度を整え、中央集権的専制君主制を確立させた。このように内政では成果を挙げたが、対外関係ではブルガリア王シメオンやキエフ・ルーシに苦しめられ、また自らの4度の再婚によって教会との関係を悪化させるなど苦労続きであった。

コンスタンティノス7世”ポルフュロゲネトス” 在位:913-959、ただし920-944は共同皇帝)
 レオーン6世の子。幼少で即位し、総主教や母ゾエ・カルボノプシナ、次いで義父のロマノス1世レカペノスに実権を握られ、親政したのはようやく40歳近くになってからのこと。父以上に学究的性格の強い文人君主で、親政するようになってからも読書や古典文化の収集、「儀式の書」「テマについて」「帝国統治論」などの執筆に没頭し、実際の政治にはほとんどタッチせず。彼の下で知的活動が活発化し「マケドニア朝ルネサンス」と呼ばれる文化の興隆がもたらされた。

ニケフォロス2世フォカス 在位:963-969
 小アジアの軍事貴族出身。有能な将軍で、対ブルガリア戦争やクレタ島の奪回で活躍。ロマノス2世(在位:959-963)の死後、首都の市街戦でライバルを破ってロマノスの未亡人テオファノと結婚して即位。対イスラム遠征では、キプロス・アンティオキアの奪回やシリアのアレッポ占領など、帝国を東方へ拡大させることに成功。またニケフォロスは敬虔なキリスト教徒で、彼の後押しによってアトス山の修道院共同体が成立した。
 しかし彼の軍事優先の政策は不人気で、厳格な性格は妻テオファノにも嫌われ、963年妻とその愛人ヨハネス・ツィミスケスの差し金によって暗殺された。イスラム勢力への軍事的成功により「サラセン人の蒼ざめた死」と呼ばれた男も、妻には勝てなかったのである。

ヨハネス1世ツィミスケス 在位:969-976
 ニケフォロスを殺害して即位した軍人。彼も有能な軍人でキエフ・ルーシのスヴァトスラフを破って北方の脅威を除くとフェニキア・シリア・パレスティナを占領して東方へ領土を広げ、エルサレムまであと1歩のところまで迫った。

バシレイオス2世”ブルガロクトノス” 在位:969-1025
 コンスタンティノス7世の孫で、ローマ・ビザンティン帝国史上最強の軍人皇帝。幼少時はニケフォロス2世・ヨハネス1世などに実権を握られ、長じて親政するようになって後も貴族の反抗やブルガリア・イスラム勢力との戦いに忙殺されたが、これらをすべて打ち破り、帝国領を東西南北へ拡大させてユスティニアヌス以来最大の領土を獲得、中世ビザンティン帝国の黄金時代をもたらした。
彼の詳細な伝記はこちら

アレクシオス1世コムネノス 在位:1081-1118
 バシレイオス2世の没後の国内の貴族勢力の台頭と、トルコ人の侵入によって崩壊寸前の状態にあったビザンティン帝国を貴族連合政権という形で建てなおし、第1回十字軍を利用して失地を回復する一方、ノルマン人ギスカール親子の帝国征服の野望をくじいたビザンティン中興の英主。娘アンナによる伝記が残されている。

ヨハネス2世コムネノス”カロ” 在位:1118-1143
 アレクシオス1世の子。父の政策を継承し、贅沢や浪費を慎み、東に西に戦いを進めてビザンティンを再び東地中海の強国にした善良なる(「カロ」)名君。

マヌエル1世コムネノス 在位:1143-1180
 ヨハネス2世の子。典型的な3代目で、父や祖父同様に有能で勇敢ではあったが派手好みで享楽的。統一ローマ帝国の復興を夢見て外交的駆け引きやイタリア遠征やキリキア・シリア遠征などの軍事行動に明け暮れたがイタリア遠征は失敗し、トルコ人には惨敗。あとには財政の破綻と領土の荒廃、ドイツやヴェネチアからの敵意だけが残された。

テオドロス1世ラスカリス 在位:1204-1222
 1204年の第4回十字軍によって首都が陥落し、帝国が一時滅亡した後小アジアのニカイアに亡命政権を樹立。苦闘の末ルーム・セルジューク朝を破って勢威を輝かせ、後のビザンティン帝国復活の足がかりを作った。

ヨハネス3世ドゥカス・バタヅェス 在位:1222-1254
 テオドロス1世の娘婿。農業の振興によって経済・財政を充実させ、軍事的には領土をヨーロッパ側に拡大してコンスタンティノープル奪回の基礎を築いた。内政でも文芸の振興や社会正義・福祉の充実をはかったニカイア帝国第一の名君。後に教会によって聖人に列せられた。 

ミカエル8世パライオロゴス 在位:1261-1282
 計略によってヨハネス3世の孫の幼君ヨハネス4世(在位:1258-1261)の共同皇帝におさまり、1261年にコンスタンティノープルを奪回してビザンティン帝国を復活させると、ヨハネスを廃位して自らが皇帝となった「狡猾なギリシャ人」。即位後も、「シチリアの晩鐘事件」など、様々な計略を駆使して帝国を西欧勢力から防衛したが首都復興や防衛戦争のための出費が重くのしかかり、早くも帝国衰退への兆しを見せるようになった。

マヌエル2世パライオロゴス 在位:1391-1425
 幼少時はオスマン帝国へ人質に出されるなど苦労を重ね、即位してからは遠くイングランドまで救援要請に出向くなど、オスマン帝国の前にもはや風前の灯火となった帝国を懸命に守り抜いた文人皇帝。とある歴史書は「良き時代にうまれていれば、さぞかし名君と謳われたであろう」と残している。

コンスタンティノス11世ドラガセス 在位:1448-1453
 マヌエル2世の子。ギリシャ・ペロポネソス半島のモレア専制公として西欧人を打ち破り、ビザンティン系勢力最後の興隆を現出。兄ヨハネス8世の死によって即位してからも、帝国の維持に奔走するが、どれも実らず1453年オスマン軍10万のオスマン軍にコンスタンティノープルを包囲される。
 圧倒的な数のオスマン軍に対して降伏を拒否し、7千人の守備兵を率いて2ヶ月戦い抜いたが、1453年5月29日首都の城壁で壮絶な戦死を遂げた、史上最後のローマ皇帝。


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