国制の変化
「古代ローマ帝国」の終焉
@ 「古代ローマ帝国」の終焉
ローマ帝国のディオクレティアヌス帝が、皇帝を「市民の第一人者」である元首制から「主人」である専制君主制に変え、コンスタンティヌス帝もその路線を受け継いだのは教科書などにも述べられている。
しかし、皇帝には首都の市民に無料で食糧を配給し、競馬などの娯楽を提供する、いわゆる「パンとサーカス」を実施する義務があり、市民達はそれと引き換えに皇帝の支配を認めていたのである。皇帝の権力の源泉は市民にある、という考えは残っていた。
東西分裂後の東ローマ皇帝達は、コンスタンティノープルの競馬場において、スタンドを埋める5万人の首都市民の前で戴冠され、はじめて皇帝としての正統性を得たのである。また市民達も競馬場で、観戦中の皇帝に対して様々な請願を行っていた。
コンスタンティヌス1世によって設置されたコンスタンティノープルの元老院も、評議会としての役割を名目的ながら果たしていた。まだこの時期の帝国は古代ローマ帝国の延長線上にあったといえる。
しかし、532年の首都市民の反乱「ニカの乱」をユスティニアヌス1世が武力で鎮圧した時から状況は変わる。ユスティニアヌスは権力のそもそもの源泉を拭い去り、専制君主としての地位を確立したのである。乱の後、宮廷儀礼が改められて元老院議員といえども皇帝を「デスポテース(主人)」と呼んで跪く事を要求されるようになり、541年には共和制ローマでの最高官職であったコンスルが廃止された。こうして帝国は次第に古代ローマの面影を失っていくのである。
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