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A 危機の時代−帝国の変質
ユスティニアヌス1世の死後、国力が疲弊した帝国は急速に衰退し、また7世紀にはペルシャ、ついでそれを滅ぼしたイスラム帝国やスラヴ人の相次ぐ攻撃で帝国は存続の危機に陥った。世界システム的にはそれまで一体であった地中海世界が分裂し、帝国は「地中海の盟主」の座を失ってしまう。そんな中危機を乗り切るために帝国は古代ローマ帝国の制度から変化を遂げる。
中央では、皇帝への権力集中がさらに進み、元老院も評議会としての役割を徐々に失っていった。9世紀頃からは一定の爵位を持つ文武高官が「元老院議員」とされ、「元老院議員」は高官本人やその家族の社会的身分を示す名称へと変わったのである。
また地方では、それまで古代ローマ後期以来の属州(プロヴィンキア)制(駐留する軍隊と行政がそれぞれ別系統に属していた)から、地方軍の長官が行政をも担当する軍管区(テマ)制に変わった(*注1)。
同時に、古代末期からの小作制(コロヌス)が崩壊して、自作小農民が登場、彼らが自分の土地を守るために武装するようになった(*注2)。これによって防衛のために、各地の住民を迅速に動員できるようになったのである。しかし、各テマは広い領域を統轄していたためにテマの力が強くなった。帝国は実質上地方分権制となり、テマが中央政府に反抗することも多くなったのである。
皇帝から首都市民への無料の食糧配給は廃止され、競馬も年数回の開催に減った。「パンとサーカス」は消滅したのだ。
皇帝支配の正統性の根拠は市民ではなく、神へと移ったのである。
法律面では8世紀にレオーン3世によって「エクロゲー法典」が出され(*注3)、それまで認められていた離婚が原則的に禁止されるなど、キリスト教の影響が強くなった(これだけを見るとキリスト教に社会が縛られていったように思えるが、その一方で妻にも財産相続権が認められるなど、女性の権利は拡大されたのである)。
また、この時期に起こった聖像破壊論争の中で皇帝の教会に対する指導権が強まり、帝国の祭政一致体制(「皇帝教皇主義」とも呼ばれる)は完全なものとなった。
こうして、この時期に公用語がラテン語からギリシャ語に変わったこともあって、古代ローマ帝国の面影は急速に薄れていった。「東ローマ帝国」は「ローマ帝国」と称しつつも、中身がまったくといっていいほど変質した「ビザンティン帝国」となったのである。
以後、帝国は東欧・東地中海の中心として新たな発展を遂げることとなる。
注1:いつ、どのようにしてテマ制に切り替わったのかについては、未だに学界でも論争中である。井上浩一氏らは、ヘラクレイオス帝の治世末期(630年代後半以降)、シリアやアルメニアに駐留していた軍団が侵入してきたアラブ人に敗北して撤退し、小アジアで防衛線を敷いた際に各軍団が自主的・非合法的に取った措置を非常事態ゆえに中央政府が追認したのが始まりであり、そのため当初の各テマは半独立政権に近いものであった、としている。しかし、アラブ人侵入以前のヘラクレイオス帝によるペルシャ遠征の際に既にテマが存在していたという説もあり、未だに結論は出ていない。が、少なくともヘラクレイオス朝の前半にはテマが存在していたことだけは確かであろう。
なお、テマの起源は、後世のビザンティン人達自身も分からなかったらしい。そのため、それに答えるべく10世紀の文人皇帝コンスタンティノス7世が『テマの起源について』という書物を残しているくらいだ(内容は史事とは違っている)。
注2:なぜ小作制が崩壊したのかは、外敵の攻撃による都市の壊滅によって都市に住んでいた地主が没落したため、と考えられているが真相は未だに不明である。
注3:発布されたものの、聖像破壊論者の出した法律であったために、聖像崇拝復活後はあまり用いられず、ユスティニアヌス帝の『ローマ法大全』の不完全なギリシャ語訳やギリシャ語による注釈が用いられていた。
本格的にギリシャ語の整った法典が出来上がるのは、マケドニア朝のバシレイオス1世・レオーン6世の時代まで待たねばならなかった。
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