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B 専制君主制の最盛期と貴族の台頭
イサウリア(シリア)朝の間に祭政一致の専制君主制と軍管区(テマ)制が確立された帝国は、9世紀のマケドニア王朝の時代に入ると、その最盛期を迎える。
まずテマが中央政府に反抗できなくするために、テマが細分化された。また官僚制も能率的に機能し、首都には確実に税収が上がってきた。
法律面では、8世紀にはキリスト教の影響の強い法典が出されるなど、ローマ法が忘れられた感があったが(「ローマ法大全」はラテン語だったため、ギリシャ系が大半を占める帝国の住民に理解できなくなっていた)、9世紀に入るとバシレイオス1世の「エパナゴゲー」やレオーン6世の「バシリカ法典」など、「ローマ法大全」をギリシャ語訳し、かつ帝国の実態に合わせて修正した法律が出された(例えば、古代ローマの市参事会制度は既に実体は消滅しているにもかかわらず法律上は残っていたのだが、この時になってはじめて廃止されている)。
こうした行政や法体系の整備によって帝国政府は安定した政治を行えるようになり、外敵に対しても守勢から攻勢に転じるようになる。それがニケフォロス2世、ヨハネス1世、バシレイオス2世の軍事的成功を生むのである。
ところが、帝国の繁栄をよそに地方では変質が始まっていた。
この頃「皇帝の奴隷」である帝国官僚として生きていくことが最高の栄達とされていたが、それにはリスクがあった。専制君主である皇帝の命令1つでクビになるかもしれないし、皇帝がクーデターで倒されたときには一緒に地位を失うかもしれないのだ(場合によっては命も失う)。
そこで安定した経済的基盤を求めて、有力者による大土地所有が進んだ。一方それまで租税と兵役を担っていた自作農民達の方でも、経済的繁栄のために貧富の差が広がり、その結果土地を手放すものが続出、それが有力者の大土地所有を助長することになった。
こうして10世紀になると各地の有力者は貴族化し、広大な土地と私兵を持つ軍事貴族として台頭してきた。ニケフォロス2世、ヨハネス1世も有力貴族の出身であった。
それでもまだ11世紀のはじめごろまでは中央の皇帝が有能で強い権限を有しており、懸命に大土地所有の発展を抑制していた(バシレイオス2世にいたっては有力者の土地没収や、税が払えない農民の分を貴族に払わせる連帯責任制度の創設など、かなり荒っぽいことまでやった)からよかったのだが、1025年にバシレイオス2世が没すると、その後は老齢・病弱・無能な皇帝が続き、その間に地方の貴族達の力が強くなった。
11世紀の後半では貴族による帝位争奪戦がおき、争奪戦に勝利した貴族が皇帝になっても他の貴族の力を抑えられなかった。このために国政は混乱、帝国は急速に衰退して領土も縮小していった。この軍事貴族の台頭による混乱をどう解決するかが、1081年に皇帝となったアレクシオス1世に課せられた課題であった。
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