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去勢された男性、それが宦官である。宦官というと、中国の後宮で
皇帝の妻と関係を持たないように去勢され、皇帝の雑用係を務めたのを思い出すが、後宮のないビザンティン帝国では宦官の役割は違った。宦官が国家の公的な組織の中に組みこまれていたのである。宦官が高位の官職に就くことが多く、
爵位保持者の大半が宦官だったとさえ言われている。尚樹啓太郎の『ビザンツ帝国史』p15には「実際、ビザンツ帝国は宦官の天国であった」とまで書かれているのだ。
例えば、侍従長(初期)・パラキモメノス(中期以降。夜間の皇帝警護役で皇帝の寝室にいた)のような宮廷内部の官職の他、文官では特に多く用いられ、帝国の行政を担う高級官僚として
活躍する者が多かった(なぜか文官最高位のコンスタンティノープル市総督(首都長官)などには就けなかった)。
またベリサリウスと並んで有名なユスティニアヌス時代の将軍ナルセスのように、軍職にも宦官は進出していた。さらに聖職者には多く、歴代のコンスタンティノープル総主教のうちかなりの数が宦官であったと言われている。
なぜ後宮の無いキリスト教国家ビザンティンでこんなに宦官が多かったかと言うと、宦官は子供が出来ないため高官職が世襲されず、皇帝に対抗する勢力になりにくく、また帝位を奪う心配がなかったたために重く用いらたのだ。そのため、最初は刑罰とされて去勢された者や両親が貧しくて売られた子供が去勢された者、
それから性犯罪を犯すのを恐れて自ら去勢した者などが宦官となっていたのだが、皇帝に重用されるために
両親が子供の出世を考えて去勢してしまうことが多く、それは高い身分の家庭でも当たり前のことであった。さらにある皇帝が失脚した際に、その子供が帝位を狙うことのない様に去勢してしまう、ということもあった。これにはミカエル1世ランガベーの息子でアモリア王朝末期からマケドニア王朝初期のかけてフォティオスとコンスタンティノープル総主教の地位を争ったイグナティオスなどがそうである。それにしても、去勢された人が支配階層の大半を占める国家というのは、現代の我々にとっては少々気味が悪い。
宦官は文官として11世紀後半には軍事貴族と対立する立場であった。このためか、尚武の気風を尊ぶコムネノス王朝時代以降は徐々に勢力を弱め、1204年以降の帝国の衰退期には財政が困窮したことなどによって宦官の勢力も衰退してしまった。
代表的な宦官達
ナルセス | 6世紀 | ユスティニアヌス1世の 将軍としてイタリア遠征で活躍。イタリア平定後は、イタリアの統治官を務めた。 |
イグナティオス(ニケタス・ランガベー) | 9世紀 | 皇帝ミカエル1世ランガベー(在位:811-813)の息子だが父が倒された時に去勢され、後にコンスタンティノープル総主教(在位:847-858、867-877)となった。総主教位を聖フォティオスと争ったことで知られている。 |
ニケフォロス・ウラノス | 10世紀 | ブルガリア王サムイルの軍隊を討ち、またアンティオキアの統治官としてアラブ人を撃退した。 |
ヨセフ・ブリンガス | 10世紀 | 皇帝ロマノス2世の行政の実権を任された。有能ではあったが民衆の人気はなし。ロマノス2世の死後、将軍ニケフォロス・フォカス(後の皇帝ニケフォロス2世)と対立し、首都の市街戦で敗れた。 |
バシレイオス・ノソス | 10世紀 | 皇帝ロマノス1世レカペノスの庶子。ニケフォロス2世フォカスからバシレイオス2世の統治初期にかけて、実質的な宰相として行政を取り仕切ったが、バシレイオス2世によって罷免・追放された。 弟のテオフュラクトスも去勢され、後に総主教になっている。 |
ヨハネス・オルファノトロフォス | 11世紀 | 弟ミカエルをコンスタンティノス8世の娘ゾエに近づけさせ、まんまと弟を皇帝ミカエル4世として即位させることに成功。病弱な弟に代わって実権を握った。重税を課したために反乱が多発、バシレイオス2世死後の帝国を混乱させた。 |
エウスタシオス・コミアノス | 11世紀 | アレクシオス1世の時代の海軍司令官。 |
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