国政を担った人々
-皇帝-

皇帝 官僚と元老院(建設中) 貴族(建設中) 宦官 皇妃たち(建設中)
軍隊(建設中) 聖職者(建設中) 首都市民(建設中) 付録:爵位・官職表(899年)

皇帝

「地上における神の代理人」
「法を超えた存在」
「全世界の主」

 唯一の正統なローマ皇帝であるビザンティン皇帝は、このように絶対の存在であり、臣下は「皇帝の奴隷」と称していた。
 政治だけではなく、宗教上でも指導的役割を果たしており、西欧のように教皇と皇帝に聖俗の権力が分離し、対立するようなことはなかった(ただし一方的に教義を決定した訳ではないので、良く使われる「皇帝教皇主義」というのには語弊がある)。皇帝の肖像を描いたモザイク画では、皇帝は頭に後光が差した形で描かれ、それはオリエント(古代エジプト・アッシリア・アケメネス朝ペルシャなど)の強大な専制君主を思わせる。

 しかしながら、皇帝達の半数近くが反乱や陰謀で位を追われ、中には暗殺されたり処刑された者もいた。皇帝即位の条件は、名目的には血統ではなく「元老院・軍隊と市民による推戴」(注1)であり、「帝位継承法」のようなものはなかったから、たとえ農民の子であろうと、運と実力次第では皇帝になれたのである。また11世紀以降は地方貴族が力を蓄えて皇帝に反抗するようになり、貴族の中には首都に乗り込んで帝位を奪うものもいた。まさに生きるか死ぬかの実力主義。そのため帝位をめぐる争いが絶えなかったのだ。
 こう書くといかにもロクでもない国であったかのように思われるが、10世紀ころまでは、この実力主義こそが帝国の活力となっていたのである(11世紀以降になると、混乱と衰退の原因にしかならなかったが)。

 ところで、古代ローマ帝国における皇帝は軍の最高司令官(インペラートル)であり、戦争をするのが第一の仕事とされ、征服称号を名乗っていた。例えば「最後の古代ローマ皇帝」などともいわれるユスティニアヌス1世の正式な称号は、

「インペラートル、カエサル、フラヴィウス、ユスティニアヌス。アラマン人の、ゴート人の、フランク人の、ゲルマン人の、アント人の、アラン人の、ヴァンダル人の、アフリカ人の、敬虔なる、幸いある、輝かしい、勝利者、凱旋者、永遠のアウグストゥス」

井上浩一/中央公論社「世界の歴史11 ビザンツとスラヴ 」第1章より

 

といった具合である。
しかし帝国が外敵の攻撃にさらされ、完全な守勢にまわった7世紀以降の皇帝は征服称号を名乗らなくなった。たとえば、ユスティニアヌスと同じ名を持ち、彼に憧れていたユスティニアノス2世(在位:685-695,705-711)でさえ、

「全世界の主である、フラヴィウス、ユスティニアノス。神によって加冠され、平和をもたらす皇帝」

前掲書より

と名乗っている。この変化はもはや「征服」なぞ出来ない状況であったことと、キリスト教思想の浸透が原因となっているようだ。
 またヘラクレイオス(在位:610-641)以降の皇帝の称号には、帝国の公用語のギリシャ語化に伴って、それまでのラテン語の「インぺラートル、カエサル、フラヴィウス(コンスタンティヌス1世以降)、アウグストゥス」に代わってギリシャ語の「バシリウス(中世ギリシャ語では”ヴァシレフス”)」が用いられるようになった(注2)。この言葉は元々はペルシャの帝王(「大王」「諸王の王」)を指していたが、ヘラクレイオスがササン朝ペルシャを降してからはローマ皇帝を指す言葉と成ったのである(注3)。さらに800年にフランク王カールが「ローマ皇帝」を名乗ってからは、「ローマ人の皇帝(バシレイオス・ロマイオン)」称するようになった(他に「単独の支配者」を意味するギリシャ語の「アウトクラトール」や「尊厳なる者」に当たる「セバストス」も用いられた。これらはヘラクレイオス以前にも、それぞれラテン語の「インペラートル」「アウグストゥス」に対応する語として使用されていた。)。そして、カールやその後継者、そして「神聖ローマ皇帝」達に「バシレイオス(皇帝)」を名乗るのは認めたが、認めたのはあくまでも単なる「皇帝」であって(つまり、コンスタンティノープル総主教から「ブルガリア人の皇帝」に戴冠されたシメオンなどと同格) 、「ローマ人の皇帝」という称号だけは絶対に認めようとはしなかった。
 皇帝は戦争を避けるのが役割となり、女帝も登場した。また、コンスタンティノス7世やマヌエル2世の様に文化人として活躍した皇帝も多くなった。しかしその一方、バシレイオス2世やコムネノス朝の皇帝のように軍人として戦った者もいた。ビザンティン帝国の皇帝には軍人である「ローマ皇帝」と、キリスト教帝国の「平和をもたらす皇帝」の2つの面があったのである。

 ちなみに追放された皇帝は目を潰されたり、鼻を削がれたりしている(麻酔がない時代なので、さぞ痛かったに違いない)。これは「五体満足ではないものは皇帝になれない」という不文律があり、再び皇帝になれないようにするために行われたものである。
また、ローマ帝国では帝位を示す色は紫であったが、紫がキリスト教では喪を意味する色のため、皇帝は緋色の帝衣(もちろん絹)をまとい、緋色のサンダルを履いていた。




注1:古代ローマ帝国の延長線上であったユスティニアヌス帝の頃までは、元老院も形式的ながら存在したし、実際に競馬場で市民を前にして即位式が行われていた。しかし、7−9世紀以降になると、軍隊はともかく、「元老院議員」は皇帝が与えたある一定以上の爵位(プロートスパタリオス以上)を持つ者だけがなれるというもになっていたし(しかもその身分は世襲ではなかった)、市民に至ってはわざわざ「デーモス(ギリシャ語で市民)」という名前の役人を雇っていたくらいなので、皇族でなくても軍隊さえどうにかすれば皇帝になれた(実際はたとえクーデターで即位しても、たいていは前皇帝の后妃などと結婚して正統性を強めていた)。
これは、逆に言えば血統だけでは正統性がないという事である。そのため皇帝が自分の息子を後継者にしたい場合は、あらかじめ「共同皇帝」あるいは「副帝(カエサル)」という地位につけて、その正統性を確保していた。

注2:それまでギリシャ語では「アウトクラトール、カイサル、フラヴィオス、セバストス(またはアウグストゥス)」で、ヘラクレイオス即位当初の勅令でこれが踏襲されている。

注3:なお、慣用形では人名の方も「皇帝」も「バシレウス(またはバシレイオス)」だが、中世ギリシャ語読みでは人名は「ヴァシリオス」、「皇帝」は「ヴァシレフス」であり、綴りも違う。古代ギリシャにおいては「バシレウス」は「王」を示した。ソフォクレスによれば、古代ローマ帝国時代には「インペラートル」の訳語として用いられることがあったという。しかし、ビザンティン学者オストロゴルスキーによれば、ユスティニアヌス時代までは「バシレウス」はアルメニア・エチオピアの王を示す言葉であったという。ヘラクレイオスが「バシリウス」を用いるようになってからは、ヨーロッパ諸国の王にはラテン語で王を示す「rex」由来の「レークス」を、アジア系民族の王には「カガノス」(カガン(可汗)由来か?)を用いるようになった。


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