ニケフォロス2世 フォカス(-969) | U |
Nikephoros U Phokas |
ニケフォロスは、953年にイスラムに敗れて負傷した父バルダスに代わって、954年末、中央軍団の中でも最高位で帝国軍の最高司令官ともいえるスコライ軍団の司令長官となった。スコライ軍団長官となると、北シリアでのイスラム勢力との戦闘に活躍した。
中央軍(タグマ) の構成
名称 | 司令官の官職名 | 司令長官の宮廷内序列 |
スコライ軍団 | ドメスティコス | 第5位 |
エクスクービテース軍団 | ドメスティコス | 第17位 |
アリトモス軍団 | ドルーンガリオス | 第36位 |
ヒカナトス軍団 | ドメスティコス | 第41位 |
963年3月15日、皇帝ロマノス2世は復活祭の最中に狩猟に出かけて事故死した。あとには皇后のテオファノとバシレイオス(バシレイオス2世)、コンスタンティノス(コンスタンティノス8世)の幼い二人の皇子が残された。バシレイオス2世が皇帝になったが、幼い彼に国政担当能力などあるはずが無く、実権は摂政テオファノが握った。しかし、聡明なテオファノはこの体制が長続きするとは思っていなかったらしい。ここで彼女は、文官側の実力者だった宦官ヨセフ・ブリンガスの反対を押し切ってニケフォロスと手を結んだのである。
地元のカッパドキアで皇帝を宣言したニケフォロスは軍隊を率いてコンスタンティノープルへ進んだ。これには宦官バシレイオス・ノソス(ロマノス1世レカペノスの庶子)、他の軍事貴族達、コンスタンティノープル総主教や首都市民もニケフォロスを支持した。いっぽうヨセフ・ブリンガスは、首都のパン焼き職人の組合と結託して市民へのパンの供給を停止するなどして抵抗したが、ニケフォロスの軍隊に首都の市街戦で敗北、ニケフォロスは8月15日に、コンスタンティノープルの大城壁にある金門(皇帝の凱旋用に使われた、首都最大の城門)から入城した。ニケフォロスは市民から歓呼を受けた。
「ようこそ、ニケフォロス、ローマ人の皇帝!ようこそ、ニケフォロス、ローマ人の偉大なる王!ようこそ、ニケフォロス、敵の軍勢を敗走させた人!」
注意:ニケフォロス2世の戴冠式の模様は大阪市立大学・井上浩一教授の講義録『劇場国家 ビザンツ帝国 第8回』をご覧下さい。
http://koho.osaka-cu.ac.jp/vuniv1996/inoue/08.html#INO8-6
こうしてニケフォロスは聖ソフィア大聖堂で戴冠され、皇帝ニケフォロス2世が誕生した。翌月にはテオファノと結婚し、ニケフォロスが、幼いバシレイオス2世とコンスタンティノス8世の義父として帝位の正統性を得て、幼い皇子達は共同皇帝という立場となったのである。東方担当のスコライ軍団司令長官には甥に当たるヨハネス・ツィミスケスを、西方担当には兄弟であるレオーン・フォカス(ロマノス2世の時にスコライ軍団の長官職が2つに分割されていた)を充て、父バルダスをカイサル(副皇帝)とした。このことは帝国史上大きな転機となった。地方で勢力を蓄えた軍事貴族が帝国の最高権力を手にしたのである。これは後の軍事貴族による帝国支配へと繋がっていくのである。
こうしてニケフォロスは皇帝になったが、彼の性格は粗雑で、生活態度は禁欲的で質素な軍人そのものであった。当然先々代の文人皇帝コンスタンティノス7世のように文化事業に力を入れることも無ければ、他の皇帝のように儀式や豪華な生活に明け暮れることも無かった。彼はひたすら戦いに明け暮れたのである。いっぽう常に死と隣り合わせに生きてきたニケフォロスは敬虔な正教徒でもあった。ニケフォロスはイスラムとの戦いは聖戦であると説き、戦死した兵士を殉教者として列聖するよう教会に求めてさえいる。
彼は964年冬、アッバース朝のカリフに向って手紙を書いた。自らの戦果を誇示した後、彼はこう述べている。
朕は全東方世界、全西方世界を征服するだろう。あらゆる土地にに十字架の教えを広げるであろう。(中略)汝の預言者は地に埋められ、その骨は粉々に砕け散ってしまう。預言者が死んで、その子孫達には死、捕らわれの身、恥辱が待っている。
井上浩一『ビザンツとスラヴ 第1章』より
実際彼は皇帝となった後も、イスラムとの戦いに勝利しつづけた。965年にはタウロス山脈を越えてキリキア地方を制圧し、東地中海の要衝キプロス島を奪回(イスラムとビザンティンの共同統治領だった)。翌年から開始したシリア遠征は3年の戦いの末、ついに969年10月28日、かつてのキリスト教の五大総主教座の1つであるアンティオキアを奪回した。ヘラクレイオス帝がイスラムに敗れてシリアを失陥してから、実に約330年ぶりの快挙であった。
Bバシレイオス・ノソスの追放と、バルダス・フォカスの反乱
ブルガリアとの戦争に敗れたバシレイオスであったが、こんどは国内の反乱に直面した。
スクレロスの反乱後、バシレイオスは帝国の統治を人任せにせずに自ら行う必要性を感じ始め、行政の実権を握っていた宦官のバシレイオス・ノソスを除こうとはかった。バシレイオス・ノソスは先のスクレロスの反乱鎮圧で功績のあったバシレイオス・フォカスらと結んでバシレイオスへの謀反を企図したが事前に察知したバシレイオスによって捕らえられた。彼は莫大な財産を没収された上で黒海北岸に追放され、彼と結託したバルダス・フォカスはスコーライ軍団(中央軍)の司令長官からアンティオキア公へと左遷された。さらにはバシレイオス・ノソスが実権を握っていた時代に発令した勅令の中でも、自らの「検閲済み」の印が無いものは無効であると宣言したのである。こうしてバシレイオス2世は単独で統治を行うことになったが、この措置は小アジアの貴族達に恐れと反感
を抱かせることになった。「この若造が生意気な!」という気分になったのであろう。
985年にブルガリア遠征に失敗すると、反乱が起きた。「偉そうなくせに戦争はダメだ」とでも思われたのだろうか。まずは987年初頭、バグダッドへ逃亡したバルダス・スクレロスが帰国して再度兵を挙げた。バシレイオスはバルダス・フォカスを鎮圧に向わせたが、8月半ばに今度はそのバルダス・フォカスが皇帝を宣言し反旗を翻した。先々代の皇帝ニケフォロス2世の甥であるバルダス・フォカスには名門フォカス家の威光があり、そのバルダス・フォカスの下に、バシレイオスの専制に不満を持つ軍隊の幹部や小アジアの大土地所有貴族達がついて強大な勢力となった。さらにバルダス・フォカスはバルダス・スクレロスも従わせ、988年には小アジア全土を占領、首都の対岸へ迫ったのである。
まさにバシレイオスにとっては絶体絶命のピンチであったが、彼も彼なりに手を打っていた。キエフ公ウラディーミル(980-1015)に妹アンナを降嫁させること(ウラディーミルの正教への改宗が条件)と引き換えに救援部隊派遣の依頼をしていたのである。988年春キエフ・ルーシの援軍6000人が到着し(*注1)、皇帝自らが指揮したルーシの精鋭部隊はフリソポリス(コンスタンティノープルの対岸。現トルコ共和国のウスキュダル)に陣取っていた反乱軍を急襲、壊滅させた。
989年4月13日のアヴィドス(小アジア)の会戦でバルダス・フォカスは死亡した。後の時代に哲学者・政治家として活躍した知識人ミカエル・プセルロスの「年代記」によれば、彼は戦いをはじめて間もなく落馬し、兄バシレイオスについて出陣していたコンスタンティノス8世に討ち取られたのだという(あらかじめバルダス・フォカスには毒が盛られていたとも伝えられているが真相は不明である)。
こうしてバシレイオスは最大の危機を脱した。バルダス・スクレロスはフォカスの死後自立して抵抗したが、989年には和解し、土地を与えられて隠棲した。ルーシとの縁組によってウラディーミルは改宗、ロシアの地に正教が伝えられ(*2)、皇帝の下に残ったルーシの部隊はその後もヴァリャーグ部隊として活躍することになる。
これらの危機の間にバシレイオスは大きく変わった。ミカエル・プセルロスはこう書いている。
皇帝の気質が変わったのは、このときからである。フォカスの死を喜ぶ一方で、彼は自分にかんする悲しい状態には少しも動じなかった。バシレイオスは誰をも疑い、傲慢で秘密主義的な人間となり、彼の命令を失敗した人間に怒声を発する、気むずかしい人間になってしまったのである。
バシレイオスは誰も信用せず、何事も1人で決裁するようになった。性格は疑り深く、暗くなった。遊興にふける享楽的な青年だった彼は、この後は個人的な欲望も友情も愛も一切棄てた。彼はついに最後まで結婚もしなかったのである。一級の文化人であった祖父のコンスタンティノス7世とは打って変わって、文化や芸術をバカにし、儀式に関心を持たず、緋色の帝衣を着ることも少なかった。まさに禁欲的な専制君主となったのである。
彼は以後ひたすら強大な帝国を作ることに明け暮れた。その戦いは死ぬまでの約40年続いた。現在残されている軍服姿の彼の肖像は、左手に刀、右手に槍を手にし、蛮族を跪かせている。プセルロスは、
バシレイオスは生涯のほとんどを国境を守る兵士として、バルバロイの略奪者から港を守る衛兵としてすごした。
と書いている。
*注1-プセルロスの「年代記」では、古代に北方に住んでいた「スキタイ人」(ヘロドトスの「歴史」に、ダレイオス1世の遠征先として出てくる)と書かれている。ヴァリャーグ人(北方人)という呼び方もあるが、彼らが今のロシア人の先祖であるスラヴ人なのか、スラヴ人と一緒に国を建てたノルマン人なのかは諸説あって不明である。
*注2-バルダス・フォカスの乱の鎮圧後、ビザンティン側はアンナの縁組をなかなか実行しなかった。当時、ローマ皇帝の皇女が外国に嫁ぐということはめったになかったのだ。それを未だキリスト教化もしていない新興国へ嫁がせるのには抵抗があったのだろう。怒ったウラディーミルは989年夏に黒海北岸のビザンティン領ケルソンを占領した。このためバシレイオスは泣いて嫌がるアンナを説得してウラディーミルのもとへ赴かせた。これによりビザンティンは北方の安定と正教会の勢力拡大、ルーシ側はローマ皇帝と縁戚を結んだことで国際的地位を向上させることに成功した。ロシアの正教改宗とバシレイオスによるビザンティン帝国の隆盛は遠く海を渡った皇女アンナのおかげでもあった。
5.西へ東へ
危機を脱したバシレイオスは、今度は最も危険な外敵ブルガリアを打倒することに力を注ぐ。バシレイオスはクロアティア・ディオクレア(現在のモンテネグロ付近)・ヴェネツィアとの同盟を強化し、東方の安定のために西グルジアとも条約を結んだ。こうして周辺を固めると990年の末からブルガリアとの戦いを始めた。991年にはマケドニアへ侵攻、サルディキ占領に着手する。
戦いは帝国に有利に展開していたが、994年 アレッポのイスラム教国ハムダーン朝(ビザンティンの属国化していた)がファーティマ朝の圧力を受け救援を要請してきた。バシレイオスは当初テマ・アンティオキア長官に兵を送って救援を命じ、自らはブルガリア征服を続行したが、アンティオキアに派遣した軍が敗北。すると彼はブルガリアとの戦いを中断して帝国を西から東へ26日で横断、17,000の兵を伴ってアンティオキアに入った。恐るべき行動力である。この報に接するとファーティマ朝の軍はアレッポから撤退した。
その後2年は首都に留まって内政に取り組んでいたが、998年には戦いを再開、ブルガリアに注力しつつも、アンティオキアが脅かされるとシリアへ赴く、という行動を取った。その間にもグルジア・アルメニアを帝国に服従させ、999年9月にシリアへ、1000年には西グルジアを併合、1001年にはアジアからバルカン半島へ渡ってブルガリアの旧都プリスカとプレスラフを占領、その後も帝国軍は4年に及ぶ激闘の末にマケドニア・テッサリアを制圧、1005年にはアドリア海沿岸のデュラキオン(現アルバニア共和国ズルラス)も帝国側へ寝返り、ブルガリア・サムイル王の支配領域は半分以下になった。
それにしても、バシレイオスの東奔西走ぶりはすごいものがある。これをプセルロスは,
バルバロイに対する遠征において、バシレイオスは他の皇帝のように春のなかばに出陣し、夏の終わりに引き上げてくるということをしなかった。彼にとって帰還するときとは作戦が成功したときであった。
と書き残している。
やがて長い戦いの末、バシレイオスは宿敵ブルガリアの息の根を止めることになる。
6.「ブルガリア人殺し」
1014年7月、テサロニカ北方のクレディオン峠でバシレイオスはサムイルの軍隊を破った。サムイルはプリラポリス(今のマケドニア共和国南部)へ逃れたが、この時バシレイオスは恐るべき行為に出た。14,000人の捕虜の100人に1人を残して両目をつぶし、残った1人は片目をつぶした。そして片目の者1人と盲目の99人を1組としてサムイルの下へ送り返したのである。この盲目の捕虜達がぞろぞろやってくるのを見たサムイルは卒倒し、2日後には世を去ったという。これによって後にバシレイオスは「ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)」と呼ばれるようになった。
その後もサムイルの子ガブリエル・ラドミールとその従兄弟イヴァン・ウラディスラフらが抵抗を続けたが、1018年にはバシレイオスはデュラキオンでイヴァンを破ってブルガリアを完全に制圧し、バシレイオスはサムイルが都としていたオフリダ(現マケドニア共和国オフリド)に凱旋入城した。これによって30年あまりの戦いの末、バルカン半島全土は再びローマ帝国領となった。バシレイオスは既に60歳になっていた。
オフリダからの帰途、バシレイオスはアテネに立ち寄った。ローマ帝国の再興に人々は熱狂し、当時聖母マリアの大聖堂になっていたパルテノン神殿では戦勝記念のミサが行われた。それはビザンティン帝国の最盛期を象徴する儀式であった。
7.バシレイオスの内政
彼は内政においては、大貴族や大土地所有者には苛烈に当たる一方、小農民の保護に努め、占領地では穏健で配慮の行き届いた措置をとった。台頭する大貴族に度々帝位を脅かされたバシレイオスは、大貴族の力を削ぐことに力を注ぎ、テマ制度を支える兵農兼務の自立小農民の保護に努めたのだ。
例えば、シリア遠征の帰途にバシレイオスがフォカス家の親戚であるカッパドキアの貴族マレイノス家に立ち寄った時のこと、まるで1国の君主のように大軍団をもてなすマレイノス家の財力に驚いたバシレイオスはマレイノス家の当主エウスタシオスをそのままコンスタンティノープルに同行させ、そのまま故郷へ帰らせなかった。そしてマレイノスが死ぬと、バシレイオスはその所領をすべて没収してしまったのである。また、996年1月の勅令では、こんな内容が述べられている。小アジアのある村に農民の土地を次々と手に入れて村全体を自分のものにしたフィロカリスという男がいた。バシレイオスは土地を返還させるよう役人に指示していたが、フィロカリスが従わないためにバシレイオス自らその村に乗りこんでその男の屋敷を取り壊し、土地を農民に返還した。大土地所有者にとっては、皇帝が自ら乗りこんでくるのだから相当恐ろしかったであろう(「暴れん坊将軍」もびっくり?)。
先述の996年の勅令では、922年以降(ロマノス1世が大土地所有を制限する勅令を出した年)に有力者が貧者から入手した土地は時効も賠償請求も無く返還させる法律を制定し(それまでは40年の時効があった)、さらにはその数年後には貧富の差の拡大で税金が払えなくなった農民が増えたため、貧しい農民が滞納した税金を近隣の貴族に支払わせるという、かなり荒っぽい連帯責任制度(アレレギュオン制度)を創設した(それまでは近隣の農民が連帯責任を負っていた)。強力なバシレイオスに恐れをなしていた貴族達は不満の声さえあげられなかった。
一方、新たな占領地に対しては、その地方の習慣と状況を考慮した行政が行われた。たとえば経済の進んでいた地方に課していた金納の税に変えて、物納を認めたりしたのである。またブルガリア占領の際、ブルガリアの首都オフリダの総主教を府主教に降格させたが、コンスタンティノープル総主教から独立した自治権を認められた。新占領地はテマに組織して統治されたという。
9.バシレイオスの死―ビザンティン帝国史の頂点―
バシレイオスの戦いは続いていた。南イタリアでは、オットー2世とテオファノ(ロマノス1世の姪)の子オットー3世の死後、ドイツ(「神聖ローマ帝国」)のハイリンヒ2世やイスラムの海賊との戦いやランゴバルド族の反乱などが続いていた。バシレイオスはヴェネツィアやピサの支援を受けてイスラムの海賊を討ち、1009-1010年、1017-1018年と起きたランゴバルト族やノルマン人の反乱を、レオーン・トルニキオス(後に反乱を起こすことに成る)やバシレイオス・ビオアニスが苦労の末に鎮圧させ、南イタリアの支配を強化した。1024年のハイリンヒ2世の死後にはランゴバルド族諸侯も服属させることに成功した。
これを見たバシレイオスはイスラム海賊の拠点となっているシチリアを征服し、南イタリアの支配を安定させようと、先遣隊をイタリアへ派遣し、準備を整えていたがその矢先の1025年12月25日に死去した。
彼の死んだ時、帝国領は東はシリア・アルメニア、南はクレタ島、西は南イタリア、北は古代ローマ帝国の国境線であるドナウ川までに拡がっていた。バシレイオスが禁欲的で金を使わなかったため、宮殿の倉庫にはおびただしい数の財宝が残されていた(当初の大きさでは入りきらなかったために、バシレイオスの命令で倉庫が拡張されたくらいだった)バシレイオスは強大な帝国の繁栄を確信して死の床についたであろう。しかし、彼の死と共に帝国の絶頂期は終わりを告げた。その後、彼の時代を超えた皇帝は誰もいなかったのである。
10.むすび
バシレイオスは、蛮族や台頭してきた大貴族に対して、個人的な欲望を捨て、鋼のような肉体と意志で立ち向かった。そしてそれは輝かしい成果を挙げた。しかし、それはバシレイオスだから出来たことであった。
バシレイオスが子供を残さずに死去した後、バシレイオスの統治に懲りた官僚や宦官・大土地所有貴族は無能・病弱・老齢な者を皇帝に立てた。バシレイオスが創設した連帯責任制度は後のロマノス3世アルギュロス(在位:1028-1034)の時代に廃止され、大土地所有は加速してしまう。強力なリーダーが不在になった帝国には東からトルコ人、西からはノルマン人が侵入し、彼の死後50年もしないうちに小アジアが失われ、1081年にアレクシオス1世が即位した頃には宮殿の倉庫は空になってしまっていた。
彼の時代は、帝国史上最高の時代、そして専制君主制が有効に機能した最後の時代であった。
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